米菓は「BEIKA」へ。品質と縁を大切に、ますます世界へ飛躍する。

森辺一樹とゲストの特別対談シリーズ【グローバルの流儀】
第23弾のゲストは岩塚製菓株式会社 代表取締役社長 槇春夫氏をお迎えしての対談です。

「岩塚のお子様せんべい」「味しらべ」「岩塚の黒豆せんべい」など、数々のロングヒット米菓を提供する岩塚製菓株式会社。 その本社は新潟県長岡市の北西部、信濃川の支流である渋海川に沿った田園風景が広がる地域にある。 たゆまぬ品質改良から生まれた良質なお米、そして豊潤な水から生み出される、岩塚製菓ならではの技術が注がれた商品へのこだわりとは? また、台湾で設立され中国大陸でも積極的に事業展開している大手総合食品メーカー、旺旺集団(ワンワングループ)との知られざる絆とは? ――岩塚製菓株式会社 代表取締役社長 槇春夫氏に話を聞いた。

地元・岩塚への愛から生まれ、創業当時の精神を脈々と受け継ぐ

森辺: 御社の商品は有名で、多くの方が口にされていることと思います。 まずは御社の事業内容と歩みについてお聞かせいただけますか?

槇 : 当社は米菓の製造と販売を行う企業で、1947年、平石金次郎と槇計作が共同で「岩塚農産加工場」を創業したことに端を発します。 「岩塚」というのは、創業地であった当時の岩塚村から取ったものなんですよ。 当時は戦後の混乱が続いていて、岩塚村では小規模な田畑農家が多かったために、大半の家庭では出稼ぎにより生活を支えていました。 私も冬休みのちょっと前になると、先生にクレヨンで自分の顔を描かされ、出稼ぎ先の父親に送るというのが学校行事になっていたくらいです。 父親がいない冬の生活は、2メートルの雪下ろしひとつ取ってみても、どれだけ大変か想像できるでしょう。 「新潟の女性は強い」といわれるワケは、このあたりからきているのかもしれませんね(笑)。

対談風景 そんな出稼ぎが常習化していた地域の将来を憂い、自分たちの生き方を模索していた2人の若者が、 「出稼ぎに行かなくてもいいように、岩塚の地域に産業を興そう」と一念発起して始めたのが「岩塚農産加工場」なんです。 食料難の中でも甘味を提供しようと、地元の農産物からイモ飴やカラメル、デンプンなどの製造を開始しました。 徐々に事業が軌道に乗り、1954年には株式会社に改組。 その頃から米菓の製造を学び、試行錯誤の上、1959年に最初の米菓である「苑月焼」の製造販売を開始しました。 翌年の1960年には「岩塚製菓株式会社」に商号変更し、本格的な米菓メーカーとして今日に至っています。

森辺: 「岩塚製菓」というのは、地元愛から生まれた社名なんですね。 槇社長で何代目になるんですか?

槇 : 私で4代目になります。

森辺: なるほど。 一族経営企業というわけですね。 実は私、一族経営企業がすごく好きなんですよ。 というのは、決断が速いのでグローバル化にとても向いています。 海外では投資に対するリターンがずっと後じゃないですか。 その辛抱ができない企業が多い中、一族経営企業は思い切った投資ができるのがすごい強みですよね。 日本ではかつて、一族経営のワンマンさを否定する傾向がありましたが、ワンマン=リーダーシップということなので、私はむしろ肯定をしている方です。

槇 : 当社も一族経営とはいえ、事あるごとに創業の精神に立ち返ることを忘れていません。 2017年の70周年では「創業の心の継承と進化」をテーマに、「今の地域社会に我々は何ができるのか」ということをもう一度、全社員で確認し合いました。 当社は創業当時から受け継ぐ「常に品質を第一にすること」「地域社会とともに生きること」という理念を、今もこれからも守り続けていきます。

「原材料より良いものはできない」からこそ、国産米を100%使用

対談風景 森辺: 御社のヒット商品をご紹介いただけますか? 私は「味しらべ」が一番好きなんですが(笑)。

槇 : 時系列でご紹介しますと、まず1966年発売の「お子様せんべい」。 これが、岩塚製菓が全国的に知られるようになったきっかけの商品です。 小さな子どもさんの食べやすさを考慮するとともに、安心してたくさん召し上がってもらいたいという思いから、 口の中でとろけるような食感と化学調味料や香料を使わない素朴な味に仕上げました。 50年以上経った今では赤ちゃんの定番おやつのようになっていますが、あの時代には新発想の商品だったといえるでしょう。

次が森辺さんに挙げていただいた「味しらべ」ですね。 1978年の発売で40年以上のロングセラーになります。 サクッとした口どけのいい独特の生地に、甘じょっぱさが懐かしいおせんべい。 発売当時とほとんど変わらない味わいが今でも人気の秘密です。 他にも、1988年発売の「がんばれ!野菜家族」は、野菜嫌いの子どもたちがおせんべいで野菜を補えるように開発され、 不足ぎみなカルシウムも加えた家族で楽しめる商品。 1999年発売の「岩塚黒豆せんべい」は、うるち米の生地に黒大豆をたっぷりと練り込んで焼き上げた、香ばしさと堅めの食感が美味しい自慢のおせんべいです。 このあたりが当社のヒット商品といえるでしょう。

森辺: 御社の米菓は、すごくお米にこだわっていて、舌の肥えた大人のおせんべいみたいなイメージがあるんですよね。

槇 : 創業当時からのこだわりとして、「農産物の加工品は原料より良いものはできない。 だから、良い原料を使用しなくてはならない。 ただし、良い原料からまずい加工品もできる。 だから、加工技術はしっかり身につけなければならない」という考え方があります。 裏を返せば、いくら加工技術を磨いても悪い材料から美味しいものはできないから、原点である原材料を吟味しましょう、ということ。 これが国産米100%へのこだわりでもありますよね。

対談風景 他の原材料についても、例えば、1996年発売の「大袖振豆もち」には、北海道の帯広にある音更町でしかできない「大袖振」という大豆を使用しています。 背が低いから機械で刈り入れができないなど、非常に育てにくくて収穫の効率も悪い品種。 輸入大豆がキロ2,000円ぐらいの時に、大袖振は2万円ぐらいという10倍の価格でした。 しかし当社はこの品種にこだわり、40年以上の間、契約栽培でやってきたんです。 今ではJAの方に、「岩塚さんがいなかったら、この大袖振大豆は日本から消えていたでしょう」と言われます。

森辺: 昔からいい原材料にこだわっているいい例ですね。 そんなロングセラーとは別に、最近、御社の商品で若者向けの感じを受けるデザインのパッケージを見るようになりました。

槇 : 「ふわっと」シリーズですね。何と、東京の品川女子学院中等部の生徒さんたちとコラボレーションした商品なんですよ。 さまざまな消費者調査を行う中、当社の商品はどうも年配のファンが多いと。 このままだと米菓はどんどんお年寄りだけの商品みたいになって、若い層にアピールできないんじゃないかという危機感があり、この商品を作るに至りました。 ふわっと軽くてとろける口溶けが自慢の米粉スナックです。これが今、よく売れていますね。

森辺: 確かに、御社の既存のヒット商品とはちょっと違って女子中学生っぽい。 結構斬新なマーケティング手法も使っていらっしゃるというのは、すごく柔軟ですよね。 御社はあんまりこういうことはしそうにないイメージがありました(笑)。 それにしても、40年、50年のライフサイクルって、マーケティングの観点から見るとものすごいですね。

槇 : 長いんですよ、本当に。その中でも上がったり下がったりを繰り返します。 これが不思議ですよね。 召し上がっている方の年代が変わっていくからでしょう。

対談風景 森辺: 味覚って10年に1度ぐらい変わっている実感がありますね。 私の場合、お酢が苦手だったのが、30代になってから好きになりました。

槇 : お年寄りが買われていっても、家庭内では意外と若い人も食べていて、それが受け継がれていっているんだろうなと思いますね。 また今回、大手小売業からオファーがあり、プライベートブランド商品の製造が決定しました。 そのプライベートブランドでオファーを出すのは、菓子業界で当社が初めてなんだそうです。 「これは岩塚にしかできない」ということで単独指名をいただき、材料や製法にこだわって2年かけて開発しました。 この地域で採れている「わたぼうし」という品種の一等米だけを使用したおかきです。

森辺: 本当に、御社の原材料や製法へのこだわり、そして地元愛には頭が下がる思いです。

損得を考えず一緒にいい商品作りに没頭した、旺旺集団との深い絆

森辺: 国内事業が順調に推移している中、海外事業についてはいかがでしょう? 御社は台湾から中国大陸に進出した大手総合食品メーカー 旺旺集団の5%の株を所有する大株主であり、 槇社長は関連会社である旺旺・ジャパン株式会社の取締役も兼務されています。 旺旺集団とのつながりを教えてください。

槇 : 旺旺集団は米菓をはじめ、菓子、飲料、酒類など多岐にわたる商品の製造販売を行う総合食品メーカーで、 製菓業で大成功を収めるのと同時に、ホテルや旅行会社、保険会社なども経営する巨大企業に成長しました。 現代表である蔡衍明(TSAI ENG MENG)氏は、今では誰もがその存在を知るほどの企業家になっています。 当社が初めて旺旺集団と接点を持ったのは40年近く前のこと。当時はまだ缶詰加工品の製造、輸出を行う工場でした。

対談風景 父親から事業を引き継いだ蔡珩明氏は、缶詰が売れなくなってきたという時代背景から、何か新しい事業を始めようと考えていたそうです。 たまたま当社の米菓が輸入品の中に混じっていて、いろんなものを食べてみたけれど岩塚製菓の「サンフレンド」という商品が一番美味しいと、 「これを台湾でやりたい」という、熱烈な手紙を送って来られました。 しかし、当時の当社は2、3年前にタイに進出したものの大失敗したという経緯があり、 「海外には二度と手を出さない」と固く誓っている時だったもので、しばらく放っておいたんですね。 すると突然、雪深い2月のある日、「今、越後岩塚駅に着いた」と蔡氏から電話がありまして。 「ええっ!?」という感じでしたよね(笑)。 こんな寒い中、待たせるわけにも追い返すわけにもいかないので、迎えに行って話を聞くことになりました。

森辺: 半ば押しかけてこられたんですね。

槇 : ええ。当社は「どうせ向こうから断ってくるだろう」と、厳しい要望を出しました。 タイの工場では品質の悪さがネックになったので台湾では、事業を成功させるために品質を保つ方法を明確にし、 日本製の機械設備を導入し、生産ラインを設計する段階から当社が介入しなければならないこと、 技術指導員2名を常駐させること、原料米を選択する権限を技術指導員に与えること、日本には輸出しないことが条件でした。 蔡氏は断るどころか、2つ返事で「やります!」と。 今の活躍を見てもわかりますが、まだ23歳か24歳だった当時から、ものすごく燃える意志を持った方でしたね。

森辺: 今、旺旺集団は中国ですごい勢いですよね。 蔡氏は2年連続で台湾一のお金持ちになり、年商は3,000億を超えています。 その礎となったのが、1983年にスタートした御社との提携だったんですね。 旺旺集団のホームページの沿革には、「日本の岩塚製菓株式会社と提携し、台湾にて米菓の製造販売開始。 短期間で台湾の米菓市場をリードし、ブランド地位を確立した」と記されています。

対談風景 槇 : 実は当時の蔡氏は、何十社という日本のメーカーとお付き合いがあったんですよ。 しかし他社との提携はうまくいかなかったようです。 他社の場合、契約書があって、どの技術を教えたらいくら、ロイヤリティがいくらと、そっちが先なんですよね。 その上で、製造から販売までを相手に任せっきりにしてしまう。 それが当時の日本メーカーのスタンスでした。 当社はその逆で、次こそは失敗できないので、まず品質ありきの体制にするには我々が行って現場の面倒を見ないとダメだという、そこからのスタートでした。

森辺: これだけ早期の時代に御社は旺旺との事業で成功され、しかもその関係が今でも切れずにつながっていて、さらに大株主として巨額の配当が入ってきているという……。 この秘訣は一体何なんでしょう?

槇 : それはもう蔡氏の人間性と「縁」ですよね。 旺旺集団は企業理念として、「旺旺は縁を大切にする企業です」と掲げています。 蔡氏が雪の中を訪ねてきた時にも、「今、この場にいるのは何かの縁じゃないか」と言われました。 彼はその縁をずっと大事にされていて、毎年家族を連れて、当社の先代社長の命日付近 にわざわざ日本に来られ、仏壇に手を合わせていかれるんですよ。

森辺: まさに人格者ですね。ただ、当時の御社は悪い言い方をしたら、つぶれかけの缶詰工場から来たどこの馬の骨かも分からない若者に、 高い技術を輸出して、紙くず同然の株をもらったということですよね(笑)。

対談風景 槇 : 本当にね(笑)。周りの人たちからは「岩塚製菓って何をやっているんだろう?」と思われていたことでしょう。 国税局にも「技術を教えているんだったら、対価をもらわなきゃ国益にならない」と言われました。

森辺: 周りにただのお人好しだと思われ、無価値だと思われていた株が、現代になって大きな配当として返ってきたということですね。 純粋にいいものを作ることを目指して損得を考えずに没頭していたら、結局得したということなんでしょう。 台湾を含む中国では、具体的にどのくらいの成果を上げているのでしょうか?

槇 : 日本と比べると物価差があるので年間生産量で言いますと、 日本には亀田製菓さんを筆頭にして約340社の米菓メーカーがあり、その総生産量が22万トンぐらいなんですよ。 中国では旺旺1社だけで、今、21万トンに上っています。

森辺: 日本と中国では小売店の数が全然違うとはいえ、21万トンの生産量はすごいですね。

「BEIKA」を「SUSHI」に並ぶような、世界に通用する言葉と価値観に

森辺: 中国における事業以外の海外展開は、現在どのような状況なのでしょうか?

槇 : 東南アジアについては、旺旺集団と一緒にベトナムのホーチミンの近くに工場を建てて生産を始めています。

森辺: ベトナムでは小売店が50万店あるうち30万店ぐらいは伝統小売ですよね。 エースコックさんが30万店フルで獲っていて、カップ麺のシェア50%ぐらいで第1位です。 ベトナムは、まだ極端に近代小売が少ないので、伝統小売で売れなければまずもっと利益は出ない市場です。 現地に拠点や工場を抱えたら尚更の市場です。 赤字に苦しむ日系企業は数多くありますね。

槇 : おっしゃる通りで、旺旺はやはりそこを狙っていますよね。 あとは日本からの輸出も行っています。 高くてもいいから、メイドインジャパンの岩塚製菓のものを買いたいというニーズもあるので。

対談風景 森辺: なるほど。 オリンピックや万博があって、日本で御社の商品を目にする機会もあるので、 インバウンドである一定層向けに、近代小売の中でもちょっと日系の匂いのするような棚だけ輸出で押さえるという戦略ですね。 キャッシュオンデリバリーであれば輸出は全くリスクがないので、そこそこの利益が見込めますね。 ベトナム工場から、東南アジア各国へ輸出していく可能性もあるのでしょうか?

槇 : その可能性はありますね。ベトナムを拠点にアジア各国へ輸出をしたいですね。

森辺: 国全体ではなくて、クアラルンプール、ジャカルタ、バンコク、ホーチミン、ハノイといった比較的余裕のある人たちが集まる都市を狙うという話ですよね。

槇 : そうですね。 あとは2018年、北米市場に向けた「IWATSUKA USA Inc.」という販売会社を当社の100%出資によりシアトルに設立しました。 純粋な米菓はグルテンフリーなので、その辺がアメリカでは非常に好まれています。

森辺: アメリカの健康意識や感度の高い人たちは御社の米菓に魅力を感じるでしょうね。 では最後に、長期的なグローバル市場における展望をお聞かせください。

槇 : 実は私、全国米菓工業組合の理事長を務めているんですよ。 こうした立場から米菓市場全体を見ると、国産米の価格が高騰していることが一番の問題だと考えざるを得ません。 当社は国産米100%でずっとやってきましたが、国産米の価格が高騰し始めた数年前から、同業他社では次々に輸入米に頼るようになりました。 日本にはせっかくいいお米があるのに、国が飼料に補助金を投入する政策を打ち出しているせいで、国産の日本食というものにお米が回らない。 これでは、グローバルな競争の中で日本の食品メーカーが勝つことはできません。 組合が一体となって、国に働きかけていきたいと思っています。

また、世界に対して広めていきたいのは「BEIKA」という言葉や価値観です。 今現在、米菓は「ライスクラッカー」と訳されていますが、日本の伝統的な食文化なんだから、 もっと自信持って、「SUSHI」「SAKE」「TEMPURA」のように日本語のまま「BEIKA」と打ち出していきたいと考えています。

森辺: 「BEIKA」は英語圏の人たちには入りやすい単語でしょうね。 それはいいアイディアですね!

グローバルの流儀 特別対談シリーズ

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森辺一樹

 
森辺 一樹 (もりべ かずき)

スパイダー・イニシアティブ株式会社 代表取締役社長兼CEO
法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科 特任講師

1974年生まれ。幼少期をシンガポールで過ごす。アメリカン・スクール卒。帰国後、法政大学経営学部を卒業し、大手医療機器メーカーに入社。2002年、中国・香港にて、新興国に特化した市場調査会社を創業し代表取締役社長に就任。2013年、市場調査会社を売却し、日本企業の海外販路構築を支援するスパイダー・イニシアティブ株式会社を設立。専門はグローバル・マーケティング。海外販路構築を強みとし、市場参入戦略やチャネル構築の支援を得意とする。大手を中心に17年で1,000社以上の新興国展開の支援実績を持つ。著書に、『「アジアで儲かる会社」に変わる30の方法』中経出版[KADOKAWA])、『わかりやすい現地に寄り添うアジアビジネスの教科書』白桃書房)などがある。


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