公開日:2019年11月18日
世界の科学技術を支えるBorn Global企業
Vol.34 日本電子株式会社 代表取締役会長兼CEO 栗原権右衛門氏
2019年5月、創立70周年を迎えた日本電子。 東京都昭島市に本社を構え、理科学・計測機器や産業機器、医用機器などの開発研究・製造・販売を行う企業だ。 1949年の電子顕微鏡の開発を起源として、世界に先駆ける高度な技術に挑戦し続けてきた。 ノーベル賞に輝くトップサイエンティストをはじめ多くの研究者を支え、世界の産業の発展に貢献している。 このような技術を擁しながらも、日本電子は2008年、赤字に転落。 その時、社長に就任したのが、現・代表取締役会長兼CEOである栗原権右衛門氏だ。 栗原氏の就任後、売上はV字型に上向き、2013年度には史上最高益を記録したという。 栗原氏が実践した改革、そして今後の展望とは。
ノーベル化学賞を受賞した技術を用いた「クライオ電子顕微鏡」を製造する企業
森辺: 御社は70年という長い歴史があり、研究者の間では知らない人はいない企業ではありますが、 BtoBの製品を扱っているため、読者の中にはピンとこない人が多いかもしれません。 まずは御社の事業内容を教えてください。
栗原: 当社は電子光学機器・分析機器、計測検査機器といった理科学・計測機器、半導体関連機器、産業機器、医用機器の製造・販売・開発研究、 そしてこれらに附帯する製品や部品の加工委託、保守・サービス、周辺機器の仕入・販売を行う会社です。 「理科学・計測機器」、「産業機器」、「医用機器」の3つのセグメントにより事業を進めています。 現在、当社の製品は世界130カ国以上の大学や研究所で使用され、グローバル企業として高い評価をいただいています。 海外ではアメリカ、ヨーロッパ、オセアニア、アジア地域など、世界30カ国以上に拠点を置き、万全のサポート体制を整備しています。 中でもJEOL USA, INC. は1962年にボストンに事業所を設立して以来、北南米の広大なテリトリーを隅々までカバーするネットワークを築いています。
森辺: 2017年に、高画質で3次元表示が可能な「クライオ電子顕微鏡法」を開発したとして、 ヨアヒム・フランク、ジャック・デュボシェ、リチャード・ヘンダーソンの3氏がノーベル化学賞を獲得しました。 このクライオ電子顕微鏡を実際に製品化したのが御社だそうですね。 世界中の科学者からも高く評価されているとお聞きしています。
栗原: 2017年6月に発表された当社の製品、「電界放出形クライオ電子顕微鏡JEM-Z300FSC」がそれにあたります。 生物にとって非常に重要なタンパク質の構造を3次元の高画質で見られる電子顕微鏡です。 このクライオ電子顕微鏡を製造しているのは、現在、世界に2社しかなく、そのうちの1社が当社です。
森辺: この70年を振り返ると、どのような歩みだったのかお聞きできますか?
栗原: 当社は戦後間もない1949年5月に、電子顕微鏡の開発会社として発足しました。 風戸健二という海軍将校が立ち上げた会社です。 海軍時代に『電子顕微鏡』(黒岩大助著)という本に出会った風戸は敗戦を迎え、 科学技術なくしては日本の復興はないと考えて、日本に電子顕微鏡を普及させようとの思いをつのらせました。 そして敗戦からわずか4年で、技術者10名とともに日本電子の前身となる日本電子光学研究所を設立したのです。 この年に、当社の電子顕微鏡第1号となる「JEM-1」を開発し、製品化しました。 日本電子光学研究所の前身である電子科学研究所時代の1948年には当時の昭和天皇が関心を持たれ、 朝日新聞社講堂において当社の電子顕微鏡をご高覧いただきました。
さらに1956年には、輸出第1号である電子顕微鏡「JEM-5G」をフランスのサクレー原子力研究所に納品。 1961年に「日本電子」に改称しました。 英語の名称は「JEOL(ジオル)」で、ここに旧社名の光学(optics)と研究所(laboratory)の頭文字が残っています。
森辺: 風戸氏は、今で言うと「ビッグデータとAIがこれからの未来を作る」と発想した人のような、先見の明を持っていたんですね。
栗原: そういえるでしょうね。その頃はサイエンスがまだ事業化していない時代ですから。 森辺さんに「先見の明」と言っていただいたような発想は、「公>私」、 要するに、国のため、世の中のため、人のために、というの創業時の理念から生まれたものだったと思います。 アメリカ流の株主資本主義で儲けだけを考えるのではなく、当社のDNAは「公のために」。 それを我々は70年間、受け継いできたといえるでしょう。
そしてもう1つのDNAは「Born Global」。 生まれながらにしてグローバル企業だということです。 設立当時はサイエンスでははるかに欧米の方が進んでいたわけで、 戦争に負けたばかりの東洋の島国がサイエンス関連の製品を発信していくなんて考えられないですよね。 しかも商社を経由せずに自力で。
森辺: 日本のメーカーはほとんどが商社に頼って、おんぶに抱っこでやっていましたもんね。
栗原: 我々の製品は値段が高いうえに数が出ないため、商社経由では売れないのです。 だから自力で販売、直販のサービスを行いました。 そんな会社、当時はほとんどなかったわけです。 1ドル360円の時代ですから、それはそれは苦労したはずですよ。 「公>私」のDNAにも通じるところで、世の中のために苦労を買って出たのですね。
その甲斐あって、その後、当社は目覚ましい科学技術の進歩に即し、電子顕微鏡のみならず、 分析機器、医用機器、産業用機器などへと事業を拡大していきました。 また、世に先駆け、世界市場を視野に入れた販売、サービス体制の構築に尽力。 今では数多くの当社製品が世界のいたるところで使用されています。
森辺: 「公>私」と「Born Global」。2つのDNAによって御社の今があるということですね。
事業低迷期に社長に就任し、5年で史上最高益へV字回復させた栗原氏
森辺: 栗原会長が入社されたのは1971年とお聞きしています。 半世紀近く、日本電子とともに歩んでこられたわけですよね。 入社後はどのような変遷があったのでしょうか。
栗原: 私は人生の3分の2を日本電子に捧げてきたわけですね(笑)。 私の入社後、当社にとって最初のつまづきが生じました。 1975年のことです。 1,000人規模の人員削減を行い、3,000人いた社員が2,000人に減りました。
森辺: ニクソン・ショックで日本の経済が非常に困窮した時期ですね。
栗原: 当社がつまづいた一番の原因は、いろいろな製品を開発し過ぎたことです。 私が入社した時にはコンピュータ、ミニコンも自社で作っていました。 それから、IC、レーザー、発振機、医用X線CT、ビデオテープレコーダー……。 要するに、30年か40年後に日の目を見る製品を、70年代に手がけたわけです。 あそこでダメだったのは、「死の谷(Valley of Death)」を超える難しさ。 当時の当社は技術系の大学生が就職したい企業のトップ10に入るほどの人気で、優秀な技術者を多数抱えていました。 だから、試作機までは順調に作れるのです。 しかし、事業というのは試作機じゃできない。 事業として利益を出すためには相当な時間と資本が必要なわけです。 その点、当社にはそういう力が足りず、死の谷を超えることができなかった。
森辺: それで、1,000人規模の人員削減に至ったわけですね。
栗原: その後もバブルが弾けて、当社は長いこと利益率が2%前後ぐらいの低収益に甘んじていました。 しかし、つぶれなかったのは国が、これからは科学技術が重要だということで、科学技術、特に大学に相当量の投資をしていたからです。 景気が悪くなると補正予算がついて、ゴングに救われるという(笑)。 それで何とか生き延びてきたものの、ある意味、恵まれていただけでした。 そして追い打ちをかけるように、2008年のリーマンショックが起きたのです。
森辺: その2008年に栗原会長は社長に就任されましたね。 日本のみならず世界中が例外なく多くの困難に見舞われたリーマンショックの中、2013年度には史上最高益へV字回復を遂げました。 この辺のストーリーを詳しくお聞かせください。
栗原: 2008年6月の株主総会で、私が7代目の社長に就任しました。 するとその年の9月にリーマンショックが起き、当社もご多分に漏れず27億数千万円の経常赤字を出してしまったのです。 バッターボックスに入って、空振りもしていないのに「三振、アウト」と言われたようなショックでしたね。 ところが、株主の方々にとっては、いつ就任したかなんて関係ありません。 「あなたが社長でしょう」と、責められていることをひしひしと感じていました。
その時はもう夢中で経営の立て直しに取り組む日々です。 「CHALLENGE 5」という中期経営計画を立て、まず、経営者・経営学者である遠藤功氏を招いて、「見える化」の講演を開催。 私は営業出身なので、会社の問題点がよく見えていなかったのですね。 見えないところに加えて、経営側が意図的に社員に見えないようにしている部分もありました。 そこでまずは問題点を見えるようにしようと考えたのです。 明らかになった問題点の1つは、当JEOLグループ各社と本社の機能がダブっていたことです。 この問題は、グループ5社を本社に統合したことにより解決しました。 特にサービス会社を本社に持ってきたことが大きかった。 今でこそ、どの会社でも「モノからコトへ」と言っていますが、この考え方を当社では10年前に実践していたといえるでしょう。
森辺: モノからコトへの取り組みをいち早く実践したんですね。 今、サービスで稼げない会社はみんなハードで困っていますからね。 グループ会社統合のところをもう少し教えてください。
栗原: はい。具体的には、本社への統合によりグループ5社にいた社長を私1人にして、グループ全体での取締役数を大幅に削減し、総務や財務といった部門も1本化。 そして、本当はしたくなかったのですが、本社の社員を150人ぐらい減らしました。 さらに、核磁気共鳴装置(NMR)の事業が利益を出していなかったので、一旦、産業革新機構に切り離しました。 このNMRというのは電子顕微鏡と並ぶ理科学分析機器で、この装置がないと科学技術が成り立たちません。 やめてしまうのは簡単ですが、当時、この事業をやっている企業は世界に3社しかなかったので、社会的責任において、やめるわけにはいきませんでした。
森辺: 「公>私」のDNAですね。 外に出すことで持分法適用会社として連結しなくて良くなるので、一定期間そのように対処したということですね。
栗原: NMRはユーザーが素晴らしいのですよ。 ノーベル賞を取るような会社が当社のユーザーでしたから。 そういう事業を捨てるわけにはいかなかった。 お陰さまで、15億円で出して、3年弱で30億で買い戻すことができました。 だから、これはサクセスストーリーなのですよ。 当社にとっても、産業革新機構にとってもね。
ほかにも、業績が悪く、シナジーが見通せない子会社を清算し、中国にあった工場を閉鎖するなど、痛みの伴う改革を実行しました。 こうした5年越しの構造改革により、2013年度には史上最高益に達することができたのです。 今、考えると、あの赤字があったからこそ会社を変えられたのだと思いますね。 あの修羅場をくぐったからこそ、社員も強くなったといえるでしょう。
森辺: 構造改革は当然、反対する人もいるわけで、なかなか実行できない企業も多いですよね。
栗原: 悪い言葉で言ったら、私の独断。 私がものすごく感謝しているのは、「辞めて頂きたい」と伝えた取締役の皆さんが、何も分派活動をされずに了解してくれたことです。 会社の要職経験者がたくさんいたら、こんなに短期間で構造改革はできなかったでしょう。
森辺: いい先輩方ですね。リーマンショックというのはそれだけ大きな出来事で、反対を押し切ってでも変える必要があった。 社長の独断というと日本では時としてマイナスなイメージを持たれますが、これはある意味リーダーシップだと思います。 今、グローバルで成功している会社はほとんどがワンマンですからね。
「70年目の転進」を掲げる新・中期経営計画「Triangle Plan 2022」
森辺: 2019年には、御社が進むべき新たな指針として「70年目の転進」を掲げていらっしゃいますね。 新しい中期経営計画「Triangle Plan 2022」について、詳しくお聞かせいただけますでしょうか。
栗原: 先ず、「70年目の転進」はこれまで当社がアカデミア市場で培ったコアテクノロジーや人脈を核に、 より大きな市場である半導体や産業機器市場あるいは医用機器市場向けに製品とサービス事業を展開し、 さらなる業容拡大を目指すと言うもので、当社の70周年を期に社内外にメッセージとして配信しています。
この基本方針のもと「Triangle Plan 2022」として取り組んでいくのは、2021年度の売上高1,340億円、経常利益100億円の達成を目指した4つの課題です。 1つ目は「コアテクノロジーの強化」。 当社のコアテクノロジーであるハイエンドの計測・分析技術を継続的に発展させていきます。 2つ目が「成長市場への積極参入」。 規模が大きく、さらなる拡大が見込まれる半導体機器、産業機器、バイオ・医用機器、そして海外の市場へ積極的に参入し、成長を加速させます。 3つ目が「トータルソリューションの提供」。 ユーザーのワークフロー全体を見据え、使い勝手の向上や効率化につながるトータルなサービスを提供していきます。 4つ目が「必要な投資と収益性向上への取組み」。 事業機会を確実に取り込むため、必要な投資をタイムリーに行い、同時に効率化を推進することで収益性の向上を目指します。
森辺: 2018年度の決算では、御社は売上高、営業利益、経常利益、当期利益ともに過去最高額を記録しましたね。 そんな中、打ち出された「Triangle Plan 2022」は、長期的に見ると御社にとってどのような位置づけになるのでしょうか?
栗原: 私の社長就任以来、Step1として、先ほどお話しした事業基盤の強化を進める「CHALLENGE 5」、 Step2として、成長戦略へシフトする「Dynamic Vision」、Step3として、成長戦略を具現化する「Triangle Plan」を進めてきました。 今回の「Triangle Plan 2022」は、Step4として、成長の加速を進める「次の打ち手」にあたる位置付けです。 「70年目の転進」により、5年後、10年後の当グループがさらに進化できるような「次の打ち手」をしっかり実行することで、 長期にわたり継続して会社の成長を促したいと考えています。
変わらないDNAを大切に、今までもこれからも、科学者とともに生きていく
森辺: 御社は現在、海外売上比率が5割を超えるグローバル企業です。 その強さの秘訣をお聞かせください。
栗原: 全体では5割強ですが、当社の代表製品である電子顕微鏡については7割が輸出です。 電子顕微鏡は、安価でコンパクトなタイプから1台20数億円する本格的なタイプまで、年間1,000台ほど売れています。 その秘訣といえば、1つには当社のDNAである「Born Global」の精神で、海外においても直販のサービスを行ってきたことが大きいでしょう。 そしてもう1つが人間関係。特に大学の先生方との人脈は当社の財産です。 新入社員であっても、有名な先生と対等に話し合えるような風潮があるのが、当社の非常に大きな強みですね。
森辺: 御社は長年、世界中の大学の研究者たちに製品を提供してきて、そのニーズが世界中にあるからこそ、高い海外売上比率になっているということですね。 科学に国境はないというわけですね。
栗原: そうです。フランスの細菌学者であるパスツールの言葉で、「科学に国境はない。しかし、科学者には祖国がある」というものがあります。 これをもじって私は、「事業に国境はない。しかし、企業には祖国がある」という話をよくするんですよ。
森辺: いい言葉ですね。
栗原: 日本の経済低迷は「失われた30年」といわれるほどですが、私はそんなに悲観していません。 日本にはこれから生き残る方法があると思う。 オリンピックの団体競技における日本チームの結束力は群を抜いています。 だから、この結束力を生かして、世界各国の企業と共創、協業していけば、日本の企業はもっと強くなる。 各企業がそれぞれの個性、アイデンティティをキープしながら、当社は日本という祖国を忘れずにチーム力を発揮していくことが大切だと思います。
森辺: 今後の御社にますます期待が持てますね。 最後に今後の展望をお聞かせください。
栗原: 分析機器や理科学機器は、科学技術や製造業の発展には欠かせない重要なツールです。 各国が科学技術立国を目指している今、またSDGsの目標達成に科学技術で貢献する企業として、当社の責任は極めて大きいと認識しています。 「70年目の転進」では、事業を変えていこうという目標を掲げていますが、その根底には時代が変わっても変わることのない当社のDNAがある。 50年経とうが、100年経とうが、それは変わらないでしょう。 その上で、「YOKOGUSHI戦略」と称して、当社が持つさまざまな製品を横断的にご利用いただくことにより、 ますます高度化し多様化するユーザーのニーズに的確にお応えしたいと考えています。
また、大学のマーケットというのは非常に限られているものの、近年、インドや中国が国を発展させるために、科学に力を入れていますよね。 こうした新しい国への参入により、世界中の人たちに当社の製品を届けたいと思います。 さらに、当社がこれまで大学のマーケットで培ってきた技術やノウハウを核として、 より大きな市場である半導体や産業機器市場、医用機器市場向けに新しい製品とソリューションを提供していくことで業容拡大を目指していきたいですね。
森辺: これからも科学者とともに生きていく。 さらに新しい分野にも参入してチャレンジしていくということですね。
栗原: 先日、東京駅に当社の広告を出しました。 そのキャッチコピーは、「世界の科学技術を支えて70年」です。 今後も世界各地の拠点の整備を行い、ユーザーのニーズに迅速に対応することで、より良いソリューションを提供していきたいですね。
森辺 一樹 (もりべ かずき)
スパイダー・イニシアティブ株式会社 代表取締役社長兼CEO
法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科 特任講師
1974年生まれ。幼少期をシンガポールで過ごす。アメリカン・スクール卒。帰国後、法政大学経営学部を卒業し、大手医療機器メーカーに入社。2002年、中国・香港にて、新興国に特化した市場調査会社を創業し代表取締役社長に就任。2013年、市場調査会社を売却し、日本企業の海外販路構築を支援するスパイダー・イニシアティブ株式会社を設立。専門はグローバル・マーケティング。海外販路構築を強みとし、市場参入戦略やチャネル構築の支援を得意とする。大手を中心に18年で1,000社以上の新興国展開の支援実績を持つ。著書に、『「アジアで儲かる会社」に変わる30の方法』中経出版[KADOKAWA])、『わかりやすい現地に寄り添うアジアビジネスの教科書』白桃書房)などがある。