海外ビジネスに関連するコラム

グローバル・コミュニケーションの真髄 第1回

駐中華人民共和国全権大使、木寺昌人大使との対談インタビュー

株式会社電通 執行役員 岩上和道

 

岩上「駐中国大使ご就任1年が経ちました。お疲れ様です。木寺大使と私は実は都立戸山高校時代の同窓生ですね。お父様はやはり外交官だったんでしたっけ?」 


木寺大使「いや、父は昔の通産省、今の経産省に勤めていました。父がフランスとベルギーの日本大使館勤務になったので、私はそれに付いて小学校1年から5年まで外国を経験しました。当時は「帰国子女」の言葉も日本人学校もありませんでした。だから今でも漢字が苦手、習字が下手です。中国に赴任してから何が困るといって、訪問先の最後に紙と筆と硯がおいてあると私は冷や汗が出てきます。何かその場に合わせて気のきいたことを書かなければならないのですが、難儀しています。大使館の広報文化担当の同僚(三上公使)はかなり上達したと言ってくれました(笑)。書くのは「日中友好」とか、文字数が多いと下手が目立つので、気をつけています。」


岩上「我々は都立戸山高校の同級生ですけど、木寺さんはそうした外国暮らしを経験していたわけですが、高校生の頃にすでに外交官を目指していたんですか?」 


木寺大使「戸山高校では私は軟式テニスばかりやっていて、大学受験も真剣に考えていなかった。でも1960年代前半に外国で暮らして、私は、日本という国は本当に素晴らしい国なのだと友達に話していました。今思えば気恥しいのですが。もともと、木寺の家は大阪の商人だったのが、祖父の代から宮仕えになった。自分は金もうけの才覚ゼロなので、ビジネスには向かない。それでは、日本のためになる仕事をしてみたいと思いました。」 


岩上「でも、小学生で外国にいてそこまで日本を意識したのは?」 


木寺大使「パリでフランス人に混じって一人東洋人がいると、皆、お前はどこから来たのか、お前の国はどこにある、何を食べているのだとか聞かれます。大学が終わるころには、実際に仕事をするにあたって、一つ所にいるのではなく、いろいろな国に行ってみたいとも思いました。」


岩上「そうして、大学は東京大学の法学部ですよね。法学部を選ばれたのは?」


木寺大使「私は高校3年の夏のテニス部の合宿にも行きましたし、浪人覚悟だったのです。それで、受けるなら国立文系で定員が最大のところだと考えました。」


岩上「普通は東大文1が一番難しいのでは?」


木寺大使「普通の人はそう考えるのかもしれないですが、私は定員が一番多いところならと考えて受けました。卒業したのは公法です。」


岩上「ちなみに大学では勉強したほうですか?」 


木寺大使「私は勉強しなかったですね。4年の時に外務省を受けたら、来なくて良いといわれました(試験に落ちました)。5年でやっと来ても良いといわれました。大学は5年やりました。同じ高校の仲間だからご存知のだと思いますが、私が大学に受かったとき、お前が受かるような大学には俺は行かないという同級生もいました。本郷に通ううちに、銀行、商社などには向いてないし、この道へ行こうという思いを強くしました。外務省に入りたいということと、フランス語が出来る、言葉が出来ることは関係ないですね。言葉が出来るだけではだめです。」



木寺大使(右)と筆者(左)。北京の日本大使公邸にて。


岩上「ちなみに外務省に入る方はみな語学が出来るということはあるのですか?」 


木寺大使「いや、それはないですね。外交官試験はなくなり、今は国家公務員試験と一緒になりました。日本の外務省の良い制度だと思いますが、入省後様々な国に言葉を勉強しに行っています。残念ながら、日本語が多くの場合、国際会議で使われる言葉ではないので、私たちが様々な国の言葉を勉強しています。」 


岩上「外交官としてはフランス語が出来たほうが良いように思いますが。」 


木寺大使「皆がフランス語を話すわけではないですが、フランス語を話す者同士はコミュニケーションも進みます。東京でも北京でもフランス語を話す大使の寄り合いがあります。この公邸で開いたこともあります。」


岩上「外交官としての外国滞在歴はどうですか?」 


木寺大使「在外勤務はパリ、バンコク、ジェネーブ、北京の4カ所です。フランスは3回勤務しました。海外の経験は少ないほうですね。普通はローテーションで、外国のポストを二つしてから本省に戻り、また外国へというパターンです。私の場合には、本省でいくつも変っています。2005年にジェネーブから帰って、去年北京に来ましたが、その間に7年間で7つのポストに就きました。短いのは官邸の内閣官房副長官補で2カ月11日、アフリカ審議官は6カ月でした。次から次にポストが変わりました。珍しいケースかもしれません。学生時代に外務省に入ったらこんな仕事をするのだろうと思ったことからすれば、かなり幅広い仕事をさせてもらいました。外務省に入って良かったなと思います。」 


岩上「こうして経歴を見ると、外交官というより政治や内閣に近いお仕事をしましたね。」 


木寺大使「官房長はそうかもしれませんが、内閣官房副長官補は官邸で行う対外関係全部関わります。総理が外遊する場合は必ず同行しますし、外国からの要人が来られると会談に同席しますし、これは非常に外交と関わりがあります。官房長は、むしろ外務省という組織を守る、留守を守るという仕事です。官房長を2年8カ月やりましたが、その間一度も海外出張はなく、飛行機に乗りませんでした。 


岩上「梶山さんの秘書官だったのは?」 


木寺大使「1996年年初から梶山内閣官房長官の秘書官でしたが、毎日梶山さんに怒鳴られました。この頃は沖縄米軍基地問題とか、ペルー事件などいろいろありました。梶山さんは非常に懐の深い方なので大変温かいものを感じました。」 


岩上「木寺大使のキャリアの中でここは面白かったというハイライトはどのあたりですか?」 


木寺大使「そうですね、私、1986年、南東アジア第一課の時にカンボジアという国と出会ってカンボジア和平のために日本は一生懸命やりますという外交を始めました。1986、7年頃に私と同僚が始めていなければカンボジア和平というのは本当に出来たかどうか?日本が初めてPKOに参加するというところまで行けたかどうかと感慨深いものがあります。そしてそれはカンボジア和平が成って、アセアンのメンバー国が拡大して10カ国になるということにも繋がったと思いますし、アジア太平洋地域の安定と繁栄に貢献できたのではないかと思います。それよりも、カンボジアが親日国であることが自分でも嬉しいことです。」 


岩上「我々広告業界はまだカンボジアまで行き着いていないで、やっとミャンマーというところです。」 


木寺大使「でも日本からの投資も増えており、ここ1、2年でかなり良いペースになってきました。北京のカンボジア大使とは最初に会ったのが1987年ですからもう26年ですよね。また、私は無償資金協力課長、国際協力局長をやりましたので、カンボジアに対する経済協力を通じてカンボジアの国造りを大いに支援しました。今もネアックルン橋、プノンペンからホーチミンに至るメコンの東西回廊がメコン川を渡る橋を建設中ですけれども、そういう仕事も出来て良かったなと思います。」


木寺大使はとても気さくなお人柄です。


木寺大使「もうひとつあげれば、2008年にアフリカ審議官をしました。日本は、5年ごとにアフリカの首脳を呼んでTICAD(アフリカ開発会議)を開いてきました。その時は横浜開催ですが、今年も横浜でした。会議の4カ月と10日前にお前がやれと言われ、よくわからないけれども一生懸命走って大勢の同僚と汗を流して会議が出来たのはありがたかったです。2008年のTICADⅣは国際的にも大変評価されました。日本のアフリカへの支援は質が非常に高く、量的には中国が大きいけれども、アフリカの外交官と話すとアフリカの希望、アフリカがどのような発展を望むかを聞いてくれるのは日本だけだと。これはTICADを始めたのは93年ですが、諸先輩の方針は正しかった。これが日本のやり方だと思いました。具体的には、アフリカへの経済協力は貧困対策ばかりを考えがちですが、実は違うのです。アフリカはもっと日本に投資をしてもらいたいのです。だから経済協力と投資と一緒に来てもらいたい。ですから横浜では経済協力倍増と日本からの投資倍増を決めました。」 


岩上「外交官として一番親しくなった友人というような方がいらっしゃいますか?」


木寺大使「これは日経の交友抄にも大分前に書いたのですが、「モンゴルの兄弟」という友人がいます。フレルバータル現駐日モンゴル大使で、兄弟のように親しいです。この間も北京に来てくれて、公邸で朝食を共にしました。モンゴルから見ると、自分たちと血の繋がった親戚が島で頑張っていると見えるのです。で、去年7月10日、「兄弟」が公邸で、北極星勲章を授与してくれました。その日、緒方貞子さんと一緒にもらいました。日本語がとても上手で、ケミストリーが合うというか、前から知ってるような気がするんですよね。今、二度目の日本大使をしています。」 


岩上「昨日の日中投資促進機構のパーティーで、「自分は北京で最も冷遇されている大使で、同時に、最も頻繁に外交部に呼ばれて抗議を受けている大使でもある」とおっしゃっていましたが、今の駐中国大使の仕事はどうなのですか?」 


木寺大使「私のここでの仕事は日中友好の拡大であり、確かに政治的状況はなかなかそれを許さないですが、私はここでいろいろな人に会って日本と中国の関係は大事だと説いてまわる。それから日本人の安全、安心も大事です。企業の皆さんが経済関係で中国側と問題があれば、大使館が動く。それから地方も回らなければならないですね。日本企業の多くは地方で大活躍されているわけで。そういうところに行って皆さんを励ます。また日本人学校もたくさんあります。訪問すると小学校低学年の生徒が元気が良いのでパワーをもらいます。」


岩上「企業の方たちに身内と思ってくださいと言ってらっしゃいますが、それは今までなかったことのように思えますが?」 


木寺大使「いや、それは外務省が変わったんです。以前のとっつきにくい外務省ではなくなりました。以前は経済の相談をしても全然乗ってくれない外務省という評判もありました。私は大使が初めてだし、私の前任の方は経済界の大御所だった。無名の新人として経済界の方にわかりやすい言い方はないかと。実際問題、大使館の敷居が高くて良いことはひとつもありません。リアルタイムで相談出来れば、それは日本企業のためになる、ひいては日本のためになると私は思ってます。」


岩上「こういうお仕事をされていて、日本人のグローバル化は進んでいるようで、進んでいないような気もするのですが、もし日本人はもっとグローバルにならなければいけないとすれば、どうすべきで、何が足りないなどそのあたりどのようにお考えでしょうか?」 


木寺大使「これがグローバルかどうかわかりませんが、マルチの国際会議、私はジュネーブでWTO(世界貿易機関)を相手に仕事をしていたのですが、そうするとメンバー国同士皆平等なんですね。アメリカや日本のような大きい国が偉くて、アフリカのジブチのような国が偉くないかといえば、主権国家ですから平等ですよね。特にWTOではコンセンサス方式というのが意思決定の一番大事なことなので、あまり先入観を持たずに、どこが強くてどこが弱いとか関係なくて、皆でため口聞きあってコンセンサス求めると。日本から見てグローバルというと何か大きなドアを開いていかないとグローバルに行かないというイメージかもしれないけど、私は、グローバルはすぐ隣りなのだと思います。大きなドアがあるわけでなく、皆さんの日常のすぐ隣がグローバルなんだと思います。飛行機に乗らなくても東京でグローバルがあるわけです。」 


岩上「弊社でもそういう議論があるのですが、グローバル戦略室みたいな組織があること自体がグローバルでないなどと言われます。あまりグローバルということを意識しないほうが良いということでしょうか?」 


木寺大使「何がグローバルなんだって突き詰めてみてもすごいものは出てこないような気がします。ようするに通信手段だ、ヒト、モノ、カネ、情報の流れの距離が縮まっているわけですから、その距離が縮まっているところでは直ちにグローバルが発生すると。グローバルを考えないといけないということですね。グローバルコミュニケーション学科みたいな学科を設けている大学がありますし、そのことを批判するつもりはありませんが、私がもしそこの先生になったら何を教えれば良いのか悩むでしょうね。」



木寺大使と奥様のツーショット。


岩上「今の日本の若い人たちは、昔よりグローバルになったんでしょうか?」 


木寺大使「両面あるんではないですか。私たちの後輩の若い人たちはまったく気後れしないで外に出て行く。これは素晴らしい。もう一方で、引き籠りだとか、外国になかなか出て行こうとしないだとか。そういう面も指摘されている。両方あるんじゃないですか。」 


岩上「弊社も最近はかえって海外へ出たくないという人もいます。日産、ソニー、最近でいえばタケダのように外国人経営者になったところもありますし、弊社も現在グローバル事業はティム・アンドレーというアメリカ人の専務が責任者です。そういう事例をみると、日本人のグローバルな経営者はなかなか出ないのかなあと思いますが?」 


木寺大使「それは業種、業態でずいぶん違うと思います。日本の商社の役員の皆さまは大体日本人ですが、やってる仕事は間違いなくグローバルです。商社さんの業態で突き詰めていけば、本社は日本で良いのかと?その場合は取締役も非ジャパンでも良いのかもしれない。日本の会社のアイデンティティーは将来変りうるのかとも思います。」 


岩上「製造業さんは日本人でも出来るような気がしますが、私どものようなコミュニケーション領域とかサービス系のものとかはなかなか日本人では難しいところもあるような気もします。」 


木寺大使「中国では多くのセクターでやっぱりキーポストは中国人をすえて頑張るというのが最近増えているのではないですかね。」 


岩上「私どもの北京電通という会社も近い将来中国人の社長にするということは考えていると思います。ところで、少しくだけた話題ですが、食事は普段は日本食ですか?」 


木寺大使「まあ、私は公邸でお客様を迎えることが多いのですが、私が連れてきた日本人の料理人と公邸で23年働いている中国人の一級調理師というのがいましてね、お客様には和食と中華を使い分けています。中国の方をお招きすることも多く、今の中国の方たちは日本食が大好きで美味しい日本食を食べたいと思っているので出来るだけご希望にかなうように努力しています。」


岩上「PM2.5のこともいろいろ言われる北京ですが、健康上何か気をつけられていることはありますか?」


木寺大使「PM2.5の値が日本の環境基準が一日平均立方メートルあたり35ミクロンで、北九州では70を超えると地方公共団体が住民にあまり外に出ないように勧告する。ここでは、簡単に200、400になると。何もしないというわけに行かないので、空気清浄機をがんがんまわして、大使館の中も日本の基準35以下が保たれています。小さいお子さんのいる館員の家庭が心配ですが、空気清浄機をまわして、あまりひどい時は外に出ないしかないですね。」 


岩上「それは大事なことですね。ところで最後の質問ですが、グローバルなコミュニケーションでの木寺大使が思う心得のようなものは何でしょうか?」 


木寺大使「まあ、グローバルになってもならなくても、コミュニケ―ションの基本は自分という一人の人間ですよね。人間が裸で何を言うのか。相手が外国の人であろうと日本の人であろうとどうやってこのメッセージを伝えようかと。そこを忘れて相手がなにかグローバルだから何か特別だと思った瞬間歪んでくるのではないですか。自然体、自分を出せば良いのではないですか。地でなさるのが一番じゃないでしょうか。」


 岩上「今日は長時間ありがとうございました。」

 

岩上和道

株式会社電通執行役員
岩上和道

いわがみかずみち

埼玉県生まれ。1978年東京大学文学部英米文学科卒。電通入社後、新聞雑誌局、ロンドン駐在。その後スポーツマーケティングビジネスを担当しサッカーワールドカップやオリンピックを経験、2004年営業局長。2008年執行役員、現在はグローバル事業を担当する。グローバル事業での経験を活かし、グローバルコミュニケーションの真髄を探る。


1952年7月 埼玉県浦和市生まれ
1971年3月 東京都立戸山高校卒業
1978年3月 東京大学文学部英米文学科卒業
1978年4月 株式会社電通入社、新聞雑誌局
1988年5月 Dentsu UK Ltd.出向(ロンドン駐在)
1993年3月 ISL事業局
スポーツマーケティング局部長など
1998年4月 第5営業局 営業部長
2002年7月 局次長職、三菱自動車工業(株)出向マーケティング部長
2004年4月 第5営業局長
2008年4月 執行役員
2013年8月 執行役員 電通イージスネットワーク事業局長兼務