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グローバル・コミュニケーションの真髄 第2回

公益財団法人日本サッカー協会  田嶋幸三 副会長と対談インタビュー

株式会社電通 執行役員 岩上和道

 

田嶋幸三 副会長(右)と筆者(左)


岩上:最初はまず浦和南高校で、全国制覇した話しを伺いたいのですが、その前でもサッカーにまつわる面白い話があればお願いします。

 

田嶋:当時は、静岡・広島・埼玉に強豪校が多かったんです。僕は世田谷区に住んでいたのですが、『赤き血のイレブン』という漫画に憧れ、縁があって浦和南高校に越境通学することになりました。自分としても大変な冒険で、家族もかなり驚いていたと思います。ですが、その思い切った決断が、自分のその後の人生に大きく影響したと思っています。

 

岩上:サッカーで行こうと決められたのは何時頃なのですか?

 

田嶋:小学校(用賀小学校)のサッカー部はいつも優勝するようなチームでした。ところが、母校の世田谷区立用賀中学校はサッカー部がなかったんです。それで仲間たちとサッカー部をつくったのですか、週に三回程度しか練習できなかったので、放課後に近くの公園に集まって試合をするという毎日でした。小学校でも中学校でも、上から押し付けられるようなことはありませんでした。それが、指導者という立場になった時、自分の意識の中に「押し付けて与える」ようなことをしないという気持ちを芽生えさせたのだと思います。また、自分たちで創意工夫して好きな様にプレーすることが、関東大会での優勝につながったと思っています。ただ、中学3年生の時に全国中学校サッカー大会の決勝で敗れたことがとても悔しくて、「これからもサッカー続けようぜ」「みんなで同じ高校行こうぜ」と純粋な気持ちで話し合っていました。でも自分としては、もう少し違うステージでプレーしたいという気持ちがあり、いくつかの高校から誘われたというのもあって、先ほど言ったように、静岡・埼玉・広島の強豪地域の中で一番近い埼玉を選んだということです。

 高校サッカー選手権で優勝したのは高校3年の時で、高1・高2の時には出場していません。高校2年生の夏、インターハイに出場し、高校選手権の決勝も県大会の決勝で敗れはしましたが、だんだん手応えを掴んできました。

当時、浦和が強くて、僕が高1の時には浦和西高校に、現在名古屋グランパスで監督をしている西野朗さんがいました。次の年は浦和市立高校が強くて全然勝てなかった。西高・市立・浦和高校は全国的に見ても強豪校で、埼玉予選を通過したら全国大会でもベスト4に行くというほどのレベルでした。

 そういう意味では、後でお話する節目節目で日本チャンピオンになれたことで、サッカーを継続して来られたのではないかと思っています。浦和南高校に行くことを選択したことは大きな決断でしたが、あれがなければ今頃ここにはいなかったと思います。

 

岩上:浦和南高校で優勝もされたということを経験して、その頃もう既に「将来は日本代表」とか「世界で戦ってみよう」という夢はあったのですか?

 

田嶋:本田圭佑ではないですが、僕も小学校の文集には「サッカー選手」とか「ワールドカップ」といったキーワードで書いていました。

1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを取り、1970年のワールドカップメキシコ大会でペレが活躍した映像も国内で見られるようになり、ワクワクして見ていたのを覚えています。当時、日本は絶対といっていいくらいワールドカップに出られない状況でしたが、サッカーをしている選手たちはみんな世界を夢見ていたんですよね。それは僕らの世代の人もそう。世界を見られたのは大きいですね。

 

岩上:ではその時から世界を見ていたというのがあったわけですね?

 

田嶋:ただ、現実とはかけ離れているということが自分でも分かっていました。

 

岩上:少し話が飛びますが、学生選抜のあたりでユニバーシアードとかワールドカップあたりから国際試合に出場されますよね。

 

田嶋:高校選手権に優勝してからはじめてユース代表に選ばれ、代表選手というのが少し見えてきて、欲が出てきたかな、という感じです。高校を卒業するときも大学へ行こうか実業団に入ろうかを迷ったのですが、その時に何故か選手よりも指導者になりたいと思ったのです。

日本のサッカーにそれほど魅力を感じていなかったのかもしれません。その当時はアジアですら全然勝てませんでしたし、JSL(日本サッカーリーグ)を観に行ってもスタジアムは閑古鳥が鳴いていました。テレビで見るダイヤモンドサッカーやイングランドとかドイツのリーグは素晴らしく、そのギャップを感じていました。将来サッカーをずっと続けていくのは、その当時は教員でコーチやるというような道しかなかったような気がします。ですから、自分は実業団に入って、将来そこで監督やコーチをやるということがあまりイメージできず、教員を養成する筑波大学に行きました。

 

岩上:では筑波大学に入られるときには、もうサッカー指導者になろうと明確に思っていらしたわけですか?

 

田嶋:ある程度は思っていました。もちろんそこで代表選手に選ばれたいという気持ちもありました。

 

岩上:まだ選手と両方の視点があったというわけですね?

その後古河電工に入られるわけですね?

 

田嶋:放任主義の大学でしたから押し付けられることもなくやれたので、それが大変自分には合っていたと思います。

 

岩上:筑波大学というのはそういうところだったのですか?

 

田嶋:わりと任せてくれるところで、厳しい上下関係もなかったですね。高校の時に鍛えられたお陰で大学1年の時には得点王になり、大学1年から4年まではベストイレブンに入りました。ですから楽しいサッカー活動ができたと思います。

筑波大から日本代表に選ばれた学生がいたのですが、僕は選ばれず、ユニバーシアード代表としてやっていました。そういうレベルでしたから実業団に行こうとは思っていなかったんです。

大学4年の時の日韓戦の前座試合に大学選抜の日韓戦をやったのですが、この時、絶好調で、日本代表の監督下村幸男さんの目に止まり、代表に選んでもらいました。そこで選ばれてなかったら多分教員になっていたと思います。代表に選ばれたことで欲が出て、もう一度自分を試そうかなという気持ちになりました。するとたまたまいくつかの実業団から声をかけていただき、その中で古河電工が自分に一番合っていましたし、大学選抜の仲間と「古河に行こう」という話しにもなりました。みんなで一緒に行こうと話していたわけではないのですが、岡田武史、吉田弘、加藤好男と4~5人が古河に入りました

 

岩上:古河電工入ったということもその後の事に影響しましたか?

 

田嶋:影響しましたね、それで大学も最後はチャンピオンになり、そういう意味では古河電工に行ってやれたのが大変良かったと思っています。

 

岩上:その後ケルン体育大学に留学はどういう経緯でしょうか?

 

田嶋:僕が大学の時に奥寺(康彦)さんが1FCケルンにスカウトされて行かれていました。ドイツ留学を条件に古河に入ったわけではないのですが、入ってすぐ、2ヶ月間のドイツ留学をさせてもらいました。4月に入社し、3ヶ月の研修を受けて7月に留学したのですが、当時システマティックなよい環境で、その時点で「俺はドイツで勉強しなければいけない」と思いました。体の調子もよく、渡辺正さんという監督が僕を日本代表に選んでくださったのでやりがいを感じていました。

しかし、ドイツに行ってみたら、1FCケルンは森のなかにあるクラブハウスがあるなど大変環境が良いところで、「絶対もう一度ここに来て勉強しなきゃいけない」という気になりました。日本に帰国しましたが、監督が代わり、二年目から代表に選ばれなくなってしまいました。選ばれなくなったらモチベーションが下がってしまい、良いプレーもできず、3年目になったところで大学院を受験したら運よく合格し、大学院に通いながらプレーをするという形を取らせてもらいました。留学の準備をしながら3年目の天皇杯でヤンマーに負けた試合で退社し、翌年留学しました。

 

岩上:ちなみにドイツ語はご自分で勉強したのですか?

 

田嶋:ドイツ語は大学の第二外国語でとっていたくらいでしたが、ドイツに行くと決めてからドイツ語学校に通いました。

 

岩上:向こうでは日本人一人だったわけですよね?

 

田嶋:一人ですけど、当時サッカーを勉強しに来ている日本人は10人以上いました。

 

岩上:それはヨーロッパのですか?

 

田嶋:いえ、ケルン体育大学です。ドイツのバイエルン・ミュンヘンが大変強かったし、システマティックに指導者養成をしているのもドイツでしたので、沢山日本人がいました。バイヤーレバークーゼンというクラブチームが隣町にあって、そこは実はクラマーさんが監督をしていました。クラマーさんをつてに行って、そこでプロのチームの練習を見させてもらったり参加させてもらったりしながら、そこのアマチュアチームでプレーさせてもらいました。最初の半年間は大学には行かずに語学学校で大学入学資格のドイツ語を勉強し、合格した後は、大学の講義と語学学校と練習が毎日の繰り返しでした。

 

岩上:給料というか、お金はどうされていたのですか?

 

田嶋:古河電工で多少は蓄えていた分もありましたが、仕送りもしてもらっていました。

 食事は大学の食堂で安く食べていたのでそれほどお金に困ったということはありません。留学している日本の方とは毎晩のように飲みながら日本のサッカーの未来について良く話していました。

 

岩上:その頃ドイツ人の友達が何人かはいましたか?

 

田嶋:体育大に通っている人が一人いて、彼が「夕方空いているならサッカーを教えないか?」と言って彼の所属しているSCウエストケルンを紹介してくれて、そこの子どもたちのコーチをやりました。教えることが勉強にもなりましたし、ドイツ語の勉強にもなりました。彼はレポートなども手伝ってくれたり、一緒に昼食を作ったりなど仲良く過ごしました。

 

岩上:それは80年台の後半ですか?

 

田嶋: 83~86年です。僕は日本ではBライセンスをとっていたのですが、ドイツでもB級ライセンスを取得しました。ドイツ語が少し分かるようになったのもあって楽しくてたまらなかった。自分は絶対に日本の指導者養成を変えなければいけないと思っていました。一方的に知識を身に付ける、本で読んで身につけるというのではなくて、実際にプロの選手達の練習風景を見ながら講義や実技の認識を深め、それを子どもたちに実践するという、ものすごく良い環境でした。

 帰国後は、恩師の松本光弘先生やサッカー協会の平木隆三さんに助けていただきました。筑波の大学院で修士論文を書いて、助手を1年やって、その後、立教大学に勤めましたが、サッカー協会ではボランティアで仕事を続けていました。よくほかのスポーツ競技団体で、サッカーは「お金があっていいですね」と言われますが、サッカー界も自腹で勉強し、ボランティアで支えている人がたくさんいるということを言いたいですね。

 良かったのは、恩師がトップにいた事ですね。東京教育大(現筑波大)出身者のリベラルな方が多かった。ドイツで学んだことをやりたいといった時、松本先生が嫌な顔もせずに後押ししてくれたことで、80年代後半は日本のC級~A級まで変えることができました。

僕は年3回行われるB級のコースに全部出て、全部違う内容でやりました。「アッチがいい、コレがいい」と精査していきながら90年代までずっとやり続けました。

ドイツでは自己表現するのが当たり前で、ドイツに行ったことで率直に自分の意見が言えるようになりました。生まれ変わったんじゃないかと友達にもよく言われました(笑)。同じ時期、立教大学で講師をやらせてもらっていたのですが、渡辺正さんという立教のOBが日本代表の監督で、僕が立教の教員になった1986年か1987年頃に実際に日本代表の指導でそのカリキュラムをトライ出来ました。立教では筑波よりも色々なことを試しましたね。日本でB級をこう変えたいというのを実現できたのですごく循環が良かったですね。そうしているうちに、JOCの在外研修でもう一度留学するチャンスがきて、1991~92年の一年間、バイエルン・ミュンヘンに行くことになったのです。

ドイツ語が少しできたおかげで、ヘルマン・ゲルラントという今もバイエルン・ミュンヘンのコーチをやっている方にとても可愛がられました。食事をごちそうしていただいたり、コーチ部屋に入れてもらったり、それを一年間続けさせてもらいました。ユースのプロの予備軍みたいなところについていたので、そこで色々な経験が出来ました。 

帰国後に92年バルセロナオリンピックがあり、バレンシアに行きました。加藤久さんに「強化委員会を川淵(三郎)さんの下で作るので(委員として)入ってくれないか」と言われてお受けしました。当時は、ライセンスを出したりコーチの研修をする指導委員会と、代表チームを強化するところと分かれていたのですが、そこを手伝ってほしいと言われて92年の夏に 帰ってきた時からすぐにそちらのお手伝いを始めました。

 タイミングが良かったのは、その時に2002年ワールドカップ招致委員会ができていたことと、93年にJリーグが立ち上がることが決まっていたことです。その時、S級ライセンスを義務化することをJリーグの規約に入れることなどが決まり、僕自身もS級を取りました。新たに始まったS級は2週間でライセンスを出しました。1週間はミリャニッチさんというユーゴスラビアの有名な指導者に指導してもらいました。また、マラドーナを擁して86年に優勝したアルゼンチンのビラルド監督が来てくれたり、映画監督の篠田正浩さんには舞台俳優さんのお話を伺ったりして面白かったですね。

93年のJリーグ開幕で、平木さんが名古屋グランパス、森孝慈さんがレッズの監督になりました。10チームのうち8チームが日本人監督でした。ジーコ、リネカー、リトバルスキーなど世界のトッププレーヤーがJクラブに移籍し、日本のプロサッカーはそういうところから学んだのですが、94年に12チーム、95年に14チームとチーム数が増える一方で、日本人監督は4人に減ってしまいました。「これはもう変えなきゃいけない」と思い、川淵さんからも「何とかしないと、このままでは日本人指導者がいなくなるぞ」と言われました。関係者に話しを聞きに行ったところ「コミュニケーション能力がなかった」とのことでした。

 

岩上:コミュニケーション能力とは、日本人選手とのですか?それとも外国人選手との?

 

田嶋: 92年までサッカーは企業スポーツだったわけです。企業スポーツということは、選手も会社員。つまり、監督は上司であって、選手は指導法や選手起用に「何故」とは聞けないわけです。監督にしてみると、自分よりサッカーのキャリアがあるジーコやリトバルスキーから「あの選手を何故代えたのか?」と聞かれることが、「自分に反発している」と思い込んでしまったんですよね。そんな風に指導者はどんどんマイナスのスパイラルに陥り、「辞めたい」という結論に至ってしまったということです。そういう監督が何人もいました。

当時、川淵さんがJリーグのチェアマンで、長沼健さんが日本サッカー協会の会長、そして筑波大学の学長が江崎玲於奈先生だったのですが、三者の話し合いで、企業の産官学のように大学に寄附講座を設けてそこで指導者養成をやろうということになり、江崎先生と寄附講座を始めたのです。

 そのベースになったのがケルン体育大学でやっているサッカーのライセンス講座でした。それで、ドイツからゲロビザンツさんという方をお招きして12週間の講座をやりました。最初はそんなに長期間の講座は無理だと思ったのですが、今では12週間は必要だったなと思っています。2週間なら誤魔化せても3週、4週と続けていくとネタがなくなってきますからそうはいかない。ドイツの人たちは、12週間やれば人は絶対に変われる、逆に隠せなくなると言います。そういう面で12週間やってみたら、大学の教員だった人も、代表選手だった人もフランクに話し合えるようになり、ドイツではこのようにやっているのかと理解してくれました。

 96年からは「ディベート」を取り入れました。12週間の中で何が印象に残ったかと言うと、ディベートですね。5対5に分かれて、「将来、携帯電話がコンピューターになるか」というサッカーには関係のないテーマを挙げて議論したり。サッカーをテーマにしたディベートでは、「98年に岡田監督がカズを選ばなかったのは是か非か」といった話もしました。そして是か非かで議論が終わると、今度は逆に自分たちの出したエビデンスを反論するなど、それが大変うけてコミュニケーションの授業をどんどん入れていくようになったのです。

今ようやくJ1・J2・J3も含めて日本人の指導者が多くなってきています。そういう意味では、カリキュラムを変えてよかったなと思います。キーはやはり期間ですね。人が変わるには12週間は必要だということですね。特にコミュニケーションは自分をさらけ出さなきゃ駄目ということで、カッコつけていても相手には通じないし、それがわかってしまいます。最初から自分なりのスタンスで行かなければ駄目だと思います。

サッカー界が一番発展するときに関わることができたのはラッキーだったと思います。僕は現場をやりたかったので、強化委員長を務めていらした大仁(邦彌)さん(現、JFA会長)に「U-17の監督をやらないか」と言われた時は、「喜んで引き受けます」とお受けしました。トルシエ監督率いる日本代表チームと僕らU-17チームが一緒に練習することもあり、いろいろ学びました。彼を嫌いだという人もいますが、彼は優秀な指導者です。コミュニケーションを重視しており、パスを出すときに必ず名前を呼ばせるんです。彼の指導は、その後の10年間の日本サッカーの蓄積になりました。そこに立ち会えたというのはとても大きいですし、自分もそこでU-17の監督をやり、勝って世界大会に行けた。その後U-19の監督になりましたが、その時の選手が長谷部誠・今野泰幸・川島永嗣・工藤浩平などです。自分にとっては大きな財産です。

 2002年のワールドカップが終わった時に川淵さんから電話があり、「技術委員長をやれと」言われ、慌ててU-20を大熊清さんに引き継ぎました。僕はその後、川淵会長の下で専務理事を6年間やらせてもらいました。現場を知っている人間が専務理事をやることが大切だなと思いました。

指導者養成の時、47都道府県を全部回ってインストラクター講習会をやりました。B級・A級講習会では、多い時でJヴィレッジに80泊~90泊しました。そこで出会った指導者仲間が47都道府県にいましたから、専務理事としても彼らに大変助けられました。それも大きな財産ですね。

 専務理事をやってサッカー界の仕組みがすごく分かりました。お金の動きなどは現場にいても分からないですからね。その後、副会長を兼務させてもらいながら小倉純二会長(現、名誉会長)に自分の後継者としてFIFA理事を目指せと言われました。小倉さんは東アジア連盟の会長、AFCの理事、FIFAの理事を兼ねていましたが、僕はAFCのインストラクターなどの経験はあるものの、AFCの理事会組織のことはよくわかリませんでした。FIFA理事選に出ろと言われて2011年に出馬し、アジア46ヶ国のうちの19票を取りました。3位だったので落選ですが、悔しさよりも訳のわからないうちに終わってしまった選挙だったという印象です。

その時にAFCの理事になり、その2ヶ月後に東アジアサッカー連盟の副会長に就きました。AFCの理事をやらせてもらい、理事会で拙いながらも英語で意見が言えるようになり、徐々に周りから信頼を得られるようになってきました。そういう意味では僕の良いところ・悪いところもみんなが分かってくれて、逆に支持してくれそうな方たちも分かってきたという手応えをつかんでいます。最初の時に選挙運動などしていないところでよく19票もとれたなと思いますが、逆に言うと日本をサポートする基礎票だったのかなと思いますし、そこにあと10票以上積まなければ当選できないということも分かりました。次のFIFA理事選はしっかりやろうと思っています。川淵会長時代に「JFA2005年宣言」を打ち出しましたが、その中枢にいましたので、あれは僕自身にとってもミッションステートメントなんです。そのミッションを実現させるためには、日本代表が世界舞台で好成績をあげることはもちろん、サポートしてくれる応援者が重要です。ですがもう一つ大事なのは、日本からFIFA理事を送り出すということです。その為にも、ターゲットを決めてやろうと思っています。

 


岩上:AFCを見ていますと西アジアの方・東南アジア・グァムなど、人種というか文化も違いますよね。そこを全部やらなければならないと思うのですが。

 

田嶋:おっしゃるとおり、民族も言葉も文化も異なる中で、そういう方たちとコミュニケーションを取るというのはとても難しいことです。今日言うことと明日言うことが違う人もたくさんいます。それは日本人の感覚では悪いことですが、向こうにしてみれば普通のこと。それをわかった上で、自分は日本人の良いところである正義感を持ち、AFCをもっと透明性のある組織にしなければならないということを主張していきたいと思っています。

親しい友人も出来ましたし、信頼されるように最後までやらなければなりません。色々なことが起きるかもしれませんが、何が起きても自分が勝てるところまでやるという覚悟をもって取り組んでいきます。

 

岩上:ブラジルのワールドカップが目前になっていますが、これはもう皆さんが一番聞くことだと思いますが、代表はどれくらいまで行けそうでしょうか?

 

田嶋:日本代表はワールドカップに出るごとに右肩上がりに進歩しています。ACミラン、インテル、マンチェスター・ユナイテッドという世界のビッグクラブに日本人がいるなんて10年前には想像もできないことだった。ブンデスリーガにも十何人もの日本人がプレーしているわけですからね。ワールドカップ本番では、強い相手に少し引いてカウンターで攻めるという戦い方も考えられますが、ザッケローニ監督はそういう方法は選ばないと思います。あくまで対等に勝負していくということです。これが吉と出るかどうかは分かりませんが、そういうレベルまで日本が来ているということ。長年の日本サッカー全体の積み重ねのお陰だと思います。2006年のワールドカップのあと、ヒデや宮本、高原、小野に続く選手が出てくるのかと言われていましたが、長谷部や本田、香川真司、長友佑都らが育っているわけですから、これはもう間違いなく日本サッカーが取り組んできた、代表・指導者養成・ユース育成という三位一体の強化策が花開いたところだと思います。また、なでしこジャパンがワールドチャンピオンになれたというのもそういう積み重ねだと思っています。日本サッカーは、間違いなくレベルアップしています。

 今度のブラジル大会の初戦のコートジボワールはFIFAランキング17位。世界のトップクラブの中心でやっている選手がたくさんいるというのはやはり怖いですし、次のギリシャもそうですが、日本は身体能力の高い相手には弱いですからね。しっかりとパスをつなぎながら崩すという日本の良さを出せるかというところが勝負だと思っています。今回はコートジボワール戦が一番の鍵となるだろうと思っています。ありがたいのは、試合会場が全て暑い土地だということ。日本人の選手は、真夏のカンカン照りで試合した経験をみな持っているわけです。岡崎慎司にしろ本田にしろ環境が悪くなればなるほど僕は日本人選手はやれると思っていますから、初戦をともかくいい形で勝ち点取る、つまり負けないこと。そしてギリシャに関しては、相手はパワー重視で来るところですから、もしかすればコートジボワール戦よりやりやすいかもしれません。そういう意味では日本の良さを出してパスをしっかり繋げれば崩せる相手です。ギリシャがランキング12位、最後にやるコロンビアが4位です。南米のサッカーは日本はあまり得意ではないですね。

 コロンビアのファルカオが怪我したのを喜びたくはありません。できれば出てくれたほうがいいですね。日本はターゲットがわかったほうが良い。日本選手は、ターゲットをしっかり分析して止めるすべを身につけられる選手たちです。それだけの分析力も備えていますから。グループステージを通過すると次イタリアかイングランドとなるわけですが、そこはやれると思っています。ともかくグループステージを突破すること。それには、コートジボワールとの初戦が一番大事です。

「JFA2005年宣言」から考えると、この大会でベスト8に入ることが必須です。そうしなければ次のアジアカップで優勝してもベスト10には入らないかもしれませんから。そういう意味でも本当にベスト8に入って欲しいです。もちろん選手たちが自分たちで考えていると思いますが。

 

岩上:最近の本田選手に代表されるように日本人選手がどんどん海外に出ていきますよね。それは昔からしたら変わったと思いますか?根本的に世界を相手にやるんだという気持ちが昔よりはるかに強くなったのか、別にそれはあまり変わってないのか?

 

田嶋:世界に行くという気持ち自体は昔と変わらないと思います。ですが実際に行けるかどうかということについて言えば、そのステージまで上がってきた、レベルが上がってきたというのは感じています。30年前の奥寺さんの時はたった一人でしたが、今は大勢いる。今欧州に20~30人位いるでしょう。アメリカのメジャーリーグサッカーにもいますし、トリニダード・トバコやパラグアイなどにもいる。タイ、インドネシア、インド、シンガポール、オーストラリアを含めると相当の数になります。奥寺さん一人しかいなかった時代だったら、ミランなんて到底無理ですね。10番も付けられないですよ。ですがそれはアジア、Jリーグも含めて、外にでることに臆してない選手が何百人もいるからこそだと思います。それが変わったことじゃないですか?

 

岩上:野球選手は、アメリカに言っても英語をあまり喋らない人が多いようですが、サッカーの選手はみんなわりと外国語を話せる人が多いですよね?

 

田嶋:先日の本田の英語のインタビューにしろ、世界のトップリーグでプレーしていくということは明確ですからね。彼はあそこではじめて英語で話したわけじゃなく、ずっと勉強してきたんですよね。長友もイタリア語でインタビューに答えたり…インテルのキャプテンですからね。今度の5月4日のミランダービーでは、長友と本田両方がキャプテンということもありえるかもしれませんよね。

 

岩上:ブラジルでは是非頑張って頂いて。

 

田嶋:これだけ期待されてこうなっているというのはありがたい反面、大変なプレッシャーですね。

 



 

岩上和道

株式会社電通執行役員
岩上和道

いわがみかずみち

埼玉県生まれ。1978年東京大学文学部英米文学科卒。電通入社後、新聞雑誌局、ロンドン駐在。その後スポーツマーケティングビジネスを担当しサッカーワールドカップやオリンピックを経験、2004年営業局長。2008年執行役員、現在はグローバル事業を担当する。グローバル事業での経験を活かし、グローバルコミュニケーションの真髄を探る。


1952年7月 埼玉県浦和市生まれ
1971年3月 東京都立戸山高校卒業
1978年3月 東京大学文学部英米文学科卒業
1978年4月 株式会社電通入社、新聞雑誌局
1988年5月 Dentsu UK Ltd.出向(ロンドン駐在)
1993年3月 ISL事業局
スポーツマーケティング局部長など
1998年4月 第5営業局 営業部長
2002年7月 局次長職、三菱自動車工業(株)出向マーケティング部長
2004年4月 第5営業局長
2008年4月 執行役員
2013年8月 執行役員 電通イージスネットワーク事業局長兼務