グローバル・コミュニケーションの真髄 第3回 株式会社 フジパシフィック音楽出版 上原 徹代表取締役社長と対談インタビュー

岩上和道
 
           上原 徹氏(右)と筆者(左)


岩上 このシリーズですが、グローバルコミュニケーションの達人ということで、外国人と上手にコミュニケーションができる日本人の方達の極意をお聞き出来れば良いと思っています。
 上原さんは私の長年の友人ですが、まずは、英語のことから聞くべきなのか、音楽のことから行くべきなのか?。
 
上原 生い立ちからでいいですよ。僕は小学校から大学まで、成蹊しか知りません。吉祥寺の成蹊で小学から大学まで過ごしました。小学校の時は足が速くて、マラソン大会で一年生の時は1位、三年生でも10位とかそんな感じで、運動会の時には必ずリレー選手でした。余談ですが、息子が英国へ留学して、マンチェスター大学でラグビーをしているとき、チームの誰よりも速かったようです。遺伝ですかね。
 
岩上 それは素晴らしいですね。100m走10秒台ですか?
 
上原 そうですね。反面、僕は音楽や美術も好きでした。小学校5、6年の時にボルガの舟唄、だったかな?音楽の授業で歌わされ、とても褒められました。自分でもうまかったなと良く覚えていて。当時、じつはバイオリンも練習していたのですが、自分の顎の当てる部分が火傷の痕みたいになって、アマリリス、きらきら星とかだけで終わりました。
 
岩上 そもそも、お父様、お母様は音楽が大変お好きだったのですか?
 
上原 私の母は小学校の先生で、当時、オルガンも弾いていたようです。
父はゼネコン、建設会社で経理関係をしていました。
家に帰るといつもタンゴとかの洋楽、アメリカン・ポップスがかかっていたので、小学生の時から、常に家に音楽がありました。小学校から中学校ぐらいの時にベンチャーズなんかが流行ってエレキ・ギターを買いました。高校の時になぜか先輩の山本學さん、俳優座の山本三人兄弟(圭、亘)がいて、その下のお嬢さん、ヒトミさん、その人に高校の時に、部員が足りないから演劇部にはいらないか?と。
よくわからないけど、演劇部に入りました。その時に舞台監督、演出、照明、美術なんかを経験して、合宿で皆でギターを弾いたりしました。僕も当時のモダーンフォークソングを弾いて演劇部の連中とバンドを組んで、その後文化祭なんかにも出るようになったんです。音楽中心の生活を送るようになって。
 
その後大学に入って、アマチュアながら色々なコンサートに出るようになりました。大学の1年、2年の時に「小さな日記」という楽曲を演劇部の後輩が作り、それを唄いました。ニッポン放送のアマチュア・バンドを扱う番組をきっかけに、その曲がオールナイト・ニッポンで全国的に流れ、ヒットしました。そうしていくうちに、最終的に東芝(当時)からレコードを出さないか、と。大学3年の時でした。

 
岩上 大学生のときにヒット曲を出したのですね。
 
上原 はい。大学に通いつつ半プロで、事務所に預けられて、衣装買って楽器揃えて歌を歌いました。入った事務所は東和企画で、当時ゴールデンカップス、ダイナマイツといった、どちらかといえばグループサウンズ、ロック系の事務所だったので、ジャズ喫茶、ディスコ等での仕事が多かったんです。僕たちはカレッジ・ポップス…コットン・パンツにボタン・ダウンでアコースティックギターを持って…というスタイルだったんですが、場所柄、エレキ・ギターを持って歌わざるを得なかった。例えばアンプや、楽器を運ぶワゴン車を買っては、自分たちで、昼は新宿、夜は横浜のプリンス、翌日は東京の御徒町、川崎のフロリダ行って、みたいな。まあ大変でしたね。ご存じかもしれませんが「フォー・セインツ」というバンド名でした。
大学を卒業する年になり、「小さな日記」に続いて「希望」をリリースして…「希望」という曲は、僕達が解散した後に岸洋子さんが歌ってヒットした曲なんですが、そのオリジナルです。
大学を卒業する時、クリスマスくらいかなぁ、僕はあるところに就職を決めました。
だけれど、やはりどうしても音楽続けたいという気持ちを消せなくなり、年明けに就職が決まった会社に断りを入れて、音楽で生きてゆくことに決めました。その時にはバンドはすでに解散してなくなっていて、僕一人でCMソングを歌ったり、いろんなことを一人でしました。そうこうしているうちに、また昔のメンバーが集まり、再結成、「フォー・クローバース」として活動を再開しました。日本テレビのドラマ主題歌「冬物語」を歌わせてもらったりね。ある程度ヒットはしましたが、バンドは長続きしませんでした。
最終的にまた解散、その後しばらく僕はまたCMの仕事をしたり、赤坂のクラブで弾き語りしましたね。
一日4回の演奏と、その間に厨房で焼きそば作ったり。当時月70万くらい稼いでいたと思います。25、6歳だったかな。こういうお店の仕事をしていると、夜11時半位に銀座からママさんやお客様が流れてくるわけですよ。ママさんとおじさんと、そして僕も一緒に、って、結構な頻度で明け方まで付き合わされました。そんな生活サイクルだったので、すっかり昼夜逆転して、確かに月に70万は魅力でしたが、体力的にずっと続けられないし、父親が夜の弾き語り商売というのもね。まあ、それがいけないわけでは全くないのですが。
 
そういう背景もあり、改めて就職活動をしました。当時は中途採用も多く、ミュージシャン上がりの多くはレコード会社に入るような風潮にあったのですが、僕としてはもうこれからは映像の時代だと考えていましたので、レコード会社は受けませんでしたね。
一方、テレビ局にも枠がなかったので、当時フジテレビの番組制作をしていたワイドプロでアルバイトさせてもらいました。もう後には戻れなかったから、一生懸命仕事して、そこで社員として契約させていただきました。

 
岩上 その時には、音楽活動でずっとやろうという思いはなかったのですか?
 
上原 本心では音楽活動を続けたかったのですが、当時アイドルブームだったんですよ。御三家とか。そんな時、自分は別にアイドルみたいな可愛い格好が似合わないし、顔もかっこよくないし(笑)
それと数年の経験で、芸能界というのは一筋縄ではいかないなともわかっていたので、音楽活動一筋
 
岩上 そういうこともある種学んだのですね。



 
上原 僕は大学出(成蹊大学)なんですが、芸能界は高校、中学、あるいは小学出の人もたくさんいます。そういう人たちと実力で勝負していくわけだし、運もある。そんな世界で一生懸命努力しても上にすぐ行けるわけではない。だから僕は裏方をやろう、と思い最終的にフジテレビの子会社(ワイドプロ)に入りそこでキャリアを積み、社員になった。
あるとき、鹿内さん(信隆氏)の息子さん:春男氏が来られた時、団塊世代からフジテレビは新人を採っていなかったので、社員採用しようということになり、僕達子会社の人間はみな社員試験を受けさせられて、そこで運良くフジテレビ本体に入りました。その時のことは今でもはっきり覚えています。
辞令をもらうとき軽く200人位はいましたので。

岩上 そんな大勢いたのですか。
 
上原 はい。辞令なのでみんな名前を呼ばれたのですが、制作やっていた人間が営業、報道に配置されたり、前職とは異なる職場に就く人が多かったです。そこで、僕も“どこだろう?”と思っていたら、「上原さん、フジ音楽出版。」って呼ばれました。

当時フジテレビ傘下には、フジ音楽出版と、あとはニッポン放送の子会社でパシフィックミュージックというのがありました。今はフジパシフィック音楽出版というように合併されているのですが、このパシフィック音楽出版に関して言うと僕達のデビューした楽曲、「小さな日記」、あと、僕が自分自身で書いたアルバムの曲なんかも契約していて。9年前にフジパシフィック音楽出版に社長としてきたのですが、フジ音楽出版も、パシフィック音楽出版も両方共に関係、繋がりがあるんですよ、僕。
芸能界に入った時の入り口、そして今出口にさしかかったときと、まさに運命の繋がりのような。
だから僕、今でもフジパシフィック音楽出版から45、6年前の印税をもらっているんですよ。会社のスタッフは印税の明細を送る切手代がもったいないということで、直接社長室に持ってきますね。(笑)
 
 
岩上 そうなんですか(笑)
今までの話ですと、まだ外国との繋がりはなかったのですね。音楽活動一筋と。
 
上原 そうですね~。 フジテレビに入ったあたりから、ぼちぼち番組を作るにあたり、海外に行くようにはなりました。年末にハワイに常駐したりして、空港にいてタレントさんを見つけては、いついつにどこどこでインタビューさせて下さい!と直接交渉したり。
あと、バラエティ番組「ズバリ!当てましょう」なんかを担当している時ですかね、海外に行くことが多かったのは。一番多かったのは、1983、4年くらいですかね、夜のヒットスタジオが二時間枠になった時、目玉として海外アーティストを扱いたいということになって。(海外アーティストが)スタジオに来れない場合は、衛星中継で海外から「生」で出てもらうのが目玉でした。通常海外から衛星中継する際は、ディレクター、AD、技術のテクニカル・ディレクターを日本から連れて行くのですが、その時言われたのが、「上原一人で行け」と。現地で全て雇えと。だから、運転手兼、コーディネーターを現地で一人雇って、向こうで制作の人間も調達しました。英語圏であろうと、フランス語圏であろうと全て一人でやりましたよね。
 
岩上 それは大変ですね。それは全部出張ベースで?
 
上原 そうですね。
 
岩上 では英語はその頃は結構喋れたのですか?
 
上原 いや、喋れるという程ではなかったですね。ビジネス・イングリッシュだから、ブロークンではマズイので、現地で通訳を頼んでいました。
そういうケースを積み重ねていくうちに、日本で音楽番組を担当するより、もっと大きな夢というか、できれば海外で音楽番組を制作したいなという気持ちが強くなりました。
そんな時、丁度ヴァージンのリチャード・ブランソン会長がフジサンケイグループと提携して、ポニーキャニオンが「ヴァージン」をレーベルとして扱っていた時なのですが、リチャード・ブランソンの秘書の人を僕が結構知っていたんです。その時期から、(海外で仕事をするなら)ロンドンがいいなと。ブランソンの秘書のような知り合いもたくさんいるし、みたいな。その時、すでに鹿内春男さんは亡くなっていたのですが、婿養子の方(宏明氏)はいて。あの方が、日本興業銀行にいて、ロンドンが好きだったので、“そりゃ上原(ロンドンに)行けよ”、と言われて、それが1989年です。

岩上 私がロンドンに転勤した88年の翌年ぐらいですね。
 
上原 そうなりますね。その前に「夜のヒットスタジオ」なんかでは、ポール・マッカートニーやエルトン・ジョンなど大物は出演させていたんですよ、衛星中継で。
それで、89年にロンドンに行った時にはもうMPL(ポール・マッカートニーの事務所)にも知り合いがいたんですよ、なのでよくオフィスに行っていました。僕がリチャード・オグデン(当時のポールのマネージャー)を知っていたので、キョードー東京の嵐田さんを紹介し、90年にポールを呼ぼうということになったんです。
ロンドンに行って89年から一年間、僕は隣に通訳をつけていました。会議をやるときも通訳の女の子をおいていた。ただいつもいい話じゃなくて、怒るときもあります。ただ通訳を通して怒ると、向こうからしたら、なんで俺は通訳から怒られるんだ、みたいなことをよく言われて。
その時ですかね、やはり自分でしっかり伝えないといけないなと思って、本格的に英語を勉強しましたね。
 
岩上 なるほど、ではそうした時に英語で直接コミュニケーションを取らなければいけない、と思ったわけですね。
 
上原 そうですね。ただ、1対1はいいのですが、5、6人の英国人が束になって話している時に入っていくのは難しいです。途中わからなくなってしまう。まあ、だんだんと経験を積むうちに相手の英語がわかるようになっていきましたが。
1993年ですかね、僕のロンドンでの仕事が評価され、当初はフジサンケイコミュニケーションズに出向という形でロンドンに来ていたのですが、日枝会長がロンドンにいらした時、“お前結構利益生んでいるみたいじゃないか”と言われて。“会社やらないか?おまえが社長やれよ”と。
それで94年にフジインターナショナルプロダクションUKという会社を作ったんです。
 
岩上 昔、FCIという名前だったのでは?
 
上原 それは僕が行った時ですね。それがFIPになりました。FCIから営業権を買い取り独立したんです。
 
岩上 ロンドンのリージェントストリートから、少し入ったとこにいらした。
 
上原 そうですね。
 
岩上 その時ご家族は?
 
上原 89年から家族と一緒でした。生後二ヶ月の娘をロンドンに連れて行きました。その時人事から、「娘や女房を連れて行くにしても、恐らく一年くらいで帰国することになると思うから、その時は女房と子供の飛行機代返せよ、本来は一人なんだから。」といわれました。「わかりましたよ、払いますよ。」と返しましたが、なんだかんだ、結局13年間ロンドンにいました。
 
岩上 それはロンドンが結果的にご自身に合ったのですかね?
 
上原 水が合ったというか、ただただ楽しかったです。というのは、自分がこうしよう、ああしようと思うままに出来ましたし。番組制作を中心にね。
当時は今みたいにネット社会ではなく、海外との連絡手段といえばFAXでした。そんな時代…94年に、FIPは、親会社のフジテレビに先んじて、ホームページを立ち上げました。フジテレビはその3年後HPを立ち上げました。
アクセス数も、一番がヤフー、二番が日経新聞、三位にFIPでした。当時10万アクセスありましたよ。フジテレビのホームページが立ち上がった時に、そのアクセス数をあげました(笑)。
ホームページなどは、まさに自分がこうしようと思ったことをそのまま出来た好事例ですね。
今も、たとえばローカル(ロンドン)のスタッフにこういう条件でこの範囲ならいいからやれ、って言って(番組制作を)やらせることがあります。言語面では、そういうことを、昔は通訳を介してだったのが、今は自分でできるようになりました。英語が上達したということですね。
 
岩上 外国人の中で信頼を勝ち取る上で、こういうことが大事だというものがあれば教えてください。
 
上原 そうですね、まずは身内の人間に信頼されるかどうかじゃないですか?
 
岩上 まずは身内の方ですか?  
 
上原 最初に僕がロンドンに行った時、当然プロデューサーとか雇うでしょ?僕が日本でやっていたのは紛れもなく音楽ビジネスでしたが、畑が違う英国では、「制作者」として、僕がどういうことができるか見当つきませんでした。だから初めは全部雇って、現地スタッフのやり方を見ていた。結局高いコストがかかりました。そういう経験を積んだ結果、自分がやったほうが早いし、お金もかからないじゃないかと思うようになりました。
ただ、僕はプロデューサーではなく、ディレクターをやりました。
女性のプロデューサーから、「あなたができるの?曲のカット割りとか?」といわれ、本番も凄く心配されたことがありましたよ。でも、僕がしっかりこなしたら「ファンタスティック、ワンダフル!」と。
そんなに出来るならもちろんオッケー、と言われましたね。
彼らは、リスペクトできる存在じゃないと駄目なんです。口だけだとすぐに見抜かれてしまう。
だから、口以上に何かを見せるとかやるとかしなきゃ駄目でした。
ここ(フジパシフィック音楽出版)へ来る時もアウェイな中に飛び込むという側面は同じで、会長(朝妻一郎氏)はじめ70人くらい社員がいる中に一人で乗り込んだんですが、その時は、皆が皆僕のお手並み拝見という感じでした。
そこで、自分が何をできるか考えた時、映像の仕事を取り、小金を稼ぐためにやろうとしたところ、社長がやる仕事じゃないからやめてくれ、と言われて。
ですが、音楽関連の映像の仕事なので、音楽の仕事に変わりなし、結果として会社に利益をもたらすなら、それでもいいと思って半ば強引に始めました。
そんな時、ちょうど「クイーン」が来日しました。
ポール・ロジャース(元フリーのヴォーカリスト)と一緒に。
クイーン来日の旨を伝えたら、“クイーンの出版はウチがやっているから、ぜひやるべきだ!”と会長も言ってくれました。
それからビリー・ジョエル、ローリング・ストーンズなんかも収録しました。
そういう実績が積み重なり、じゃあ、映像制作部作っちゃえ、ということで。
今では売上も数億にのぼるほど大きくなりました。
そうすると、社員の、“社長は出版の人間ではないけど、多少出版の著作権の収入が少なくなってきているところで、映像制作の稼ぎで穴埋めしてくれている”と考えてくれるようになりました。
また、取るのが難しいフジテレビの番組枠獲得交渉をし、番組枠を獲得、その番組にウチの楽曲を入れ込むとかして、プロモーションしています。
そういう積み重ねが、映像と音楽は表裏一体という僕の考えを社員に周知させる武器になりました。
やっぱり、見せてやるしかないですね、自分のコアな実力を。
相手が外国人であっても、日本人であっても、やれることはやってみせる。
出来ない時は、ロンドンの場合外人スタッフをどう使うか、また弁護士をどう使うかを考えたことが多かったですね。何かするときは必ず弁護士を立てて、一枚でも二枚でも多く契約書を作ってサインしてもらうことが大事なマーケットでした。
 
それと僕が一番勉強したのは、労務関係とか、人事です。
というのは、番組制作している時は、そんなことにまったく携わらないでしょ?
ただ自分が会社を立ち上げるとなると、人を雇ううえで、労働時間の問題、待遇なんかも契約書で詰めなければなりません。給料を毎年レビューする際、スタッフと一対一で話したりね。“給料上げて”“じゃあお前何したの?”とか。相手はちゃんと自分の思うことを言います。日本と違って。日本人はあまりはっきり言わない。会議でもそれが多いと思います。みんなが一致すればいいや、みたいな。自分で責任を取りたくないからですかね。外国では自分の意志が重要で、もちろん責任も背負いますから、それなりの。
 
岩上 やっぱり外国では上に立つ人は部下を評価してる、してないをはっきり言いますよね。日本は人事面接でもぼやかして悪いところなんかもストレートで言わないですし。
 
上原 そうですね。日本でも最近は年功序列でなくなってきている。
だから例えば50歳の人間が40歳の人間なんかに使われるとこともある。バランス崩れますよ、と言われますけど、できるやつを年齢関係なしに上に上げていくのは仕方ないことです。
 
岩上 もうそういう時代になっちゃったんですね。
 
上原 そうなっちゃいましたね。
 
岩上 そうですね。 今日はどうもありがとうございました。


 
 

岩上和道

株式会社電通執行役員
岩上和道

いわがみかずみち

埼玉県生まれ。1978年東京大学文学部英米文学科卒。電通入社後、新聞雑誌局、ロンドン駐在。その後スポーツマーケティングビジネスを担当しサッカーワールドカップやオリンピックを経験、2004年営業局長。2008年執行役員、現在はグローバル事業を担当する。グローバル事業での経験を活かし、グローバルコミュニケーションの真髄を探る。


1952年7月 埼玉県浦和市生まれ
1971年3月 東京都立戸山高校卒業
1978年3月 東京大学文学部英米文学科卒業
1978年4月 株式会社電通入社、新聞雑誌局
1988年5月 Dentsu UK Ltd.出向(ロンドン駐在)
1993年3月 ISL事業局
スポーツマーケティング局部長など
1998年4月 第5営業局 営業部長
2002年7月 局次長職、三菱自動車工業(株)出向マーケティング部長
2004年4月 第5営業局長
2008年4月 執行役員
2013年8月 執行役員 電通イージスネットワーク事業局長兼務

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