I MURRことAntonioとRobertaのMurr夫妻。
イタリアファッション業界の重要人物、Made in Itayアンバサダー、Fashion Guru、エトセトラ。
彼らと初めて会ったのは4年前、2011年6月のミラノでした。
フィレンツェで半年に一度開催されている、世界最大級のメンズウェア見本市PITTI IMMAGINE UOMO(以下PITTI)への三度目の出展を主目的としたイタリア出張中、そのPITTI終わりで入った、そして、ちょうどファッションウィーク中だったミラノ滞在時のことです。
そもそも知り合ったきっかけは、PITTIへの初回出展時に僕のスタンドをじっくり見てくれたシシリー出身のデザイナーTotho。
彼がBlogで僕のことを書き、「面白いデザインをする日本人を見つけたよ」と、そのBlog記事とルックブックをAntonioに見せたのが事の発端です。
僕のデザインを気に入ったAntonioはすぐにコンタクトを取ってきて、プロフィール等の質問をした後で「ところで、ルックブックの中にどうしても欲しいスーツがあるんだけれど、Ryojiの服はどこで買えるの?」と聞いてきました。
残念ながら、初回出展時にはヨーロッパの卸先を開拓出来なかったので、「まだ、日本じゃないと買えないんだよ。円高でなかなか商売が難しくて」といった実情を説明したところ「それはよくないね。でも、Ryojiのデザインはワールドワイドで売れるに違いないから、為替が問題ならイタリアで作ればいい。高品質な縫製工場を紹介するから。来月ミラノで打ち合わせ出来る?」といった風に、唐突に話が展開していった印象が強烈に残っています。
いや、印象に残っているというよりも、以降も事あるごとにそんな調子、例えば、「B社(←James Bondも着ていた某有名ブランド)がデザイナーを探しているから履歴書を送って欲しい。それから、うまく話が進みそうならすぐに面接に来れる?」といった調子だったので、付き合いが長くなるにつれその印象が増幅されたという方が正しいでしょうか。
いずれにせよ、その時は結局、サンプルで作っていた中から彼のサイズに近そうなスーツを一着セレクトして送ることにしました。
そして、その後、Facebook等のSNSでつながり、交流を深める中で意気投合、機会を作って実際に会うことになった訳です。
2011年6月某日。
今でも忘れません、モンテナポレオーネ通りのETROのブティック前で待ち合わせたTothoとAntonioに連れられて行った、通りをサンバビラ広場方面に下りきった辺りの左手にあるオープンカフェ。。。
「あそこで話そう!」と誘導されて左手に入ったら、ずらりと横並びで座っていた10人以上の「ザ・イタリアファッション業界!」な男女が立ち上がって「Ciao〜〜〜!」、チュッ、チュッ。。。
「うわ〜〜〜、聞いてなぞ、これ。1対10以上じゃん。Antonioだけでも緊張するし、Tothoですら会うの2回目なのにぃぃぃ」などと思い、少々気が重くなったものでした。
もしあの時の写真が残っていたら、超がつくほどの顔の引きつりから僕の困惑の大きさが分かることでしょう(笑)。
ちなみにその一団は、I MURRをいわば座長にしたイタリア各地からミラノに来ているファッション業界人のグループで、デザイナー、セレクトショップのオーナー、スーツファクトリーのCEOといった面々がメンバー、彼らは情報交換やI MURRとの交流のために集まっているようでした。
そんな彼らに早速Antonioが、過去3回分のルックブックを見せながら、大袈裟な感じで僕を紹介。
でもみんなは、「ふ〜〜ん」「日本人のデザイナーねぇ」「ヨージ(ヤマモトさん)は大好きだよ」という、まったくもって深い関心はない感じ。
そりゃそうだ、彼らはいずれもメンズファッションの本場イタリアのプロフェッショナル、突然見ず知らずの日本人を紹介されてもなかなか興味は抱きづらいでしょう。
また、地方から来ている人も少なくなかった訳で、「限られた時間の中でI MURRとシリアスな話をしておきたい!」という人もいたでしょうしね。
でも、その後、確かその時のPITTIの2日目に出た、僕と僕の作品が半ページに渡って掲載されているCorriere della Sera紙のファッション特集をAntonioが僕のバッグの中に見つけてビックリ仰天、それをAntonioがみんなに見せたらビックリ仰天はみんなに伝染、突如として「場の中心」は僕に移りました。
この連載の初回でも触れたあの記事は、東日本大震災をからめた内容で、不思議な巡り合わせがあって無料掲載された偶然の産物だったのですが、広告を含めて10ページほどの特集にメンズブランドは2ブランドしか載っていなかったこと、隣の半ページに載っていたのがその時のPITTIの招待デザイナーBand Of Outsidersだったこと、そして、イタリア最大発行部数を誇る日刊紙だったこと等が要因となって、「無名の日本人の彼がなぜ??」「すごいな!」「これ、どれだけお金出してるの???」といった具合にかなりのインパクトを与えたようです。
そして、その頃には、みんなの視線が「ふ〜ん」といった感じから「こいつ只者じゃない!?」みたいな感じに変化し、一気に打ち解けられたように記憶しています。
新聞パワー恐るべしです!
いや、もしかしたら、実のところ、変化があったのはみんなの方ではなく、新聞の盛り上がりのおかげでやっと緊張感が解けた僕の方だったのかもしれません。
いずれにしても、「超寡黙な侍デザイナー」みたいな印象で終わらなくて良かったです(笑)。
打ち解けられなかったら、後に、この時のひとりがデザイナー契約のオファーをしてくる(この話はまた別の機会に)、なんてこともなかったに違いありません!
その後、その集まりは解散となり、僕はI MURRとTothoと彼の友人のJoshと5人で、ショーやプレゼンテーション、パーティをハシゴしました。
そして、翌朝「モンテナポレオーネにも巨艦店を持っているL社がチーフデザイナーを探しているというのでRyojiを推薦したら、副社長が会いたがっている。夕方にでも行こう」とメールが。
その頃にはAntonioの調子にもちょっとだけ慣れてきたので、そして、この時のミラノ滞在はいつもより時間があったので「物は試しに」と一緒に行くことに。
結局、後に著名イタリア人デザイナーと契約することになるL社には採用されなかった(されても困ったような笑)のですが、I MURRのふたりは、その後もショー/展示会の会場やパーティで、いろいろな人たちに「いいデザイナーがいるよ」「彼はすごいよ」「このルックブック見てよ!」と僕を熱く売り込む訳です。
「ザ・日本人」の僕です、熱心に語る彼らの傍で、嬉しいやらむず痒いやら複雑な思いを感じながらシャイになっていました(笑)。
でも、こういったコネクションがないといろいろと難しい、実力だけではなかなかステップアップ出来ない、というのがイタリアファッション業界の実情でもあるようです。
そんなイタリアファッション業界のリアルな内側を、I MURRと過ごした2日間を通して、ちょっとだけ垣間見ることが出来た気がしました。
かように至極濃厚で有意義で新しい発見だらけの2日間、コンタクトを続けて良かったなぁ、会って良かったなぁ、流れに身を任せてみて良かったなぁ、とつくづく思いました。
彼らとの再会はフィレンツェ、PITTIの会場でバッタリとでした。
僕がインディペンデントになって、
LOUD GARDENというRockなテイラーショップを立ち上げた直後の2012年6月、1年振りの再会。
その年の3月頃に僕の環境が変わったことは簡単にメールで報告しておいたはずなのですがうまく伝わっていなかったようで、まずは「水くさい!」と怒られました(笑)。
そして、「Ryoiのスタンドを探したけど見つからなかった」→「なんで出展を止めたんだ」→「今はどうしているんだ」→「イタリアで何かやるべき」→「会わせたい重要な人物がいるからミラノで会おう」→「明後日どうしてもミラノにいて欲しい」という風に、わずか10分ほどの間に話が急展開したので、急遽、翌日1泊する予定だったチェゼーナを数時間のステイに変更、ホテルをキャンセル(珍しくかなりラグジュアリーなホテルを予約していたんですけどね〜〜〜泣)してミラノへ向かいました。
ミラノでは、イタリア有数のスーツファクトリーの社長(とご子息)、ユニークなブランドばかりを扱っているディストリビューター等々、複数人の重鎮にじっくりと時間を掛けて紹介してくれると同時に、「RYOJI OKADAブランドをイタリアでスタートするべき」「あらゆる応援をするよ!」と強力に肩を押してくれました。
そうそう、この時は意思疎通に行き違いがあっても困ると思い、急遽通訳のFさんにも来てもらったなぁ、あの節は本当にありがとうございました。
それにしても。
人生で一度しかない、あの日、あの時、あのタイミング。。。
近い将来のイタリア移住も真剣に視野に入れて、自身の既製品ブランドを立ち上げるための行動を起こすことも選択肢になかった訳ではないでしょうけれど、自分にとって何よりも大事な存在である、生まれたばかりのLOUD GARDENの運営が疎かになるであろう道に進むのはやっぱり難しかったと思います。
いずれにせよ、それが、唐突にして大胆、その時点の僕にはとても手に負えなそうなスケールの話・提案であったとしても、彼らが僕の才能を信じてくれて、何の見返りも求めずに、本気で熱く動いてくれる事実は素直にとても嬉しく、また、そんな彼らとのポジティヴな交流こそが「ヨーロッパ市場にチャレンジしたい!」という初期衝動を心の中で燃やし続ける最大のエネルギー源になっています。
自身の大きな可能性を感じることが出来た2日間、店舗オープン直後に強引にイタリア出張を入れておいて良かったなぁ、急遽旅程を変更して良かったなぁ、とつくづく思いました。
そして、昨年の夏頃にAntonioから「仕事で10月に日本に行くことになったよ」と連絡が入りました。
前回会って以降、イタリアには2回行っていましたが、ミラノには立ち寄れなかったので1年半振りの再会。
直前になってリスケジュールになるなど、たくさんのドタバタ劇にも見舞われましたけれど、11月に無事、スーパーチャーミングな息子Marioを連れてI MURRが初来日しました!
ここ東京で彼らに会えるなんて想像もしていなかったので、本当に嬉しく、感慨深かったです。
そして言うまでもなく、いつも変わらぬ熱さで応援してくれる、僕にとってはイタリアにおける後見人みたいな存在の彼ら、たくさんの恩義があります。
TV局の人に会えないか?大手広告代理店のキーマンに会えないか?Ryojiの店でイヴェントが出来ないか?などなど。。。
彼らの多種多様なリクエストには、すべてベスト以上を尽くしました。
彼らも満足してくれたと思います、多分。。。
特に、LOUD GARDENで行った”Style Suggestions”イヴェントは大盛況だったので、彼らも多いに楽しんでいました。
Style Suggestions中のI MURR
おめかししたI MURRの息子Mario
Style Suggestionsのフライヤー
尋常ならざるエネルギーに満ちた数日間、極力誠実に全力投球をして良かったなぁ、とつくづく思いました。
そして、次の来日がいつになるかは分かりませんが、次回はこちらからいろいろな提案をしよう!とも思いました。
さて、どうしてこのようなエピソードを長々書いたか申しますと、またいつかStlye Suggestionsをやることがあればぜひ皆さんにも来ていただきたい!というPRのため。
だけではなく、彼らとの交流を通して以下のように強く感じているからです。
熱く継続する関係こそ宝物。
「ビジネスの成功には豊富な人脈が不可欠」という話をよく聞きますが、僕はあまり量的に豊富な人脈を持っていません。
そのせいでビジネスがなかなか成功しないのかも知れませんけれど(笑)。
いずれにせよ、かつて誘われて参加した異業種交流会やチャリティーイヴェントといった場でも痛感した通り、僕は所謂「人脈作り」があまり得意ではないし、それどころか、本当に大切な人脈は作るものではなく、日頃の信頼関係の結果として自然に生まれる/育つものである、という風にすら思っています。
I MURRとの関係もそうです。
友人を介した偶然の出会いから交流が始まり、お互いに興味を抱いて交流を深め、見返りを考えずに熱く誠実な行動を積み重ねた結果、かけがえのない関係に育ちました。
今後も更に育ち続けるでしょう。
現在、そんなI MURRとのつながりがきっかけとなって、いくつか海外展開のオファーが舞い込んでいます。
極めて光栄なことです。
かように彼らとの関係は僕にとって宝物、彼らにとってもそうであったらいいな、と日々思っています。
そして、かように質的に豊富な人脈をいくつか持っていることに関してだけは、僕は自分を誇らしく思っています。
これからも、熱く継続する関係を生み育てていきたいものです。