2014年1月14日
私は昭和30年代に早稲田の第一法学部に入学した。
親父が「将来弁護士にでもなるなら金を出そう!」と言ったからである。
熊本の田舎町で小さな雑貨屋をしていた親父から見れば東京の大学に倅を行かせるという事は経済的に大変な事であったに違いない。
その倅は兎に角「東京に憧れ、東京の大ロマンの渦に巻き込まれ、凄い美人と大恋愛をしたい!」と高校の図書館で読みあさって来た小説にカブれていたのだ。
勘当されて仕送りをキッパリ止められてしまった
だから東京に来ても法律の勉強などしやしない。学校にも殆ど行かずパチンコ屋に入り浸りの生活だ。夢に描いた美人程ではないが女子大生と仲良くなり同棲生活はする、まるで南こうせつの「神田川」の世界である。
ところが、そんな私の生活ぶりが熊本でも噂になり、爪に火を点す思いで仕送りをしていた親父が怒り心頭に来て仕送りをキッパリと止めてしまった。いわゆる勘当である。
「バカ息子に心身を削る思いで仕送りをするもんか!」という親父の意地もあったろうし、「親の世話にならなくてもメシぐらい自分で何とでもなるわい!」と言う若気の意地とがぶつかり私は自分の口を養うために“仕事”をしなくちゃならなくなった。
それは仕送りのプラスアルファの遊び金稼ぎのいわゆるアルバイトではなく、自分の生活自体を支える金を稼ぐための本格的な”仕事“であった。
親から仕送りを止められた私はまず出費をギリギリに削減しなければならない。出費の大きなものは下宿代と食費である。
食費は日雇いの労働者に密造酒を売りつけ、腐臭のする魚を食わせ、その代りメチャクチャ安い池袋のバクダンと言う店で済ませた。夜寝るだけの下宿代、「夜寝なキャー掛からない!」「夜寝る代わりに仕事すりゃー一石二鳥」とばかりに夜の仕事、夜警の募集に応じて夜警を始めた。ガードマンなんてカッコいい言葉が無い頃である。銀座の5丁目から8丁目の夜回りである。
8丁目の町内会事務所が拠点で2人交替で翌朝の8時にその日の夜警終了である。
町内会事務所は驚いた事に冷暖房完備、周辺に数ある料亭から貧乏学生には勿体ない食い物の差し入れはある、それに2人交替なので適当に寝る事も出来る。その上安いが給料も呉れる!昼間は名曲喫茶で粘りに粘って音楽は聞けるし寝る事も自由だ。私の「仕事遍歴」はこんな経費の掛からない素晴らしいとこから始まる。
ネクタイ族になるきっかけはペンキ屋だった
私は子供の時から好奇心が強い子供であったように思う。兎に角、「自分が知らない世界を知りたい!」「行った事のない所へ行つてみたい!」と言う欲望が強かった。だから図書館などの本で自分が知らない歴史や物理や美術、果ては内外の推理小説など不思議の世界を時間を忘れて漫遊し、自分と言葉の違う東北地区などを放浪して歩いた。当然メシのために行つた先々で仕事をした。
そうこうするうちに名曲喫茶で親しい“売れない絵描グループ”が「平野君、ペンキ屋の仕事をやらないか?」と呼びかけて来た。
売れない絵描き達は副職でペンキ塗りをしていたのだ。「ペンキ職人の技術は簡単だし、日当はアルバイトの約10倍にもなるし、とにかく金になるんだ!」と言う。夜警の仕事に不足はなかったものの、「金になる!」の一言は私の心を揺さぶった。なーに彼らは落ちたペンキの掃除雑用をする人間として、私が必要だったのだ。しかし私は金になる本物の職人修業をし、いっぱしのペンキ職人になった。そのうちにペンキ職人を束ねている“世話役”達が「平野はレッキとした大学の生徒で学問があり、弁も立つ、職人でペンキまみれにしておくのは勿体ない。平野なら外交(セールス)をやりアッチコッチから仕事を取って来るだろう!」と私をオダテ、チヤホヤし形の上で職人グループの“頭”のような立場に祭り上げた。私は職人達に餌を運ぶ親鶏のように「仕事」を運ばねば職人やその家族が飢える立場になってしまった。
私は必至で官庁や大企業、工場やマンション、団地などを「“ペンキ塗り替え仕事”はありませんか?」とセールスして歩いた。しかしどんな組織にも既に入札、談合、星取順番などの“しくみ”があり、若造がノコノコ行つても仕事など取れるはずがない。
結局談合ボスを頼りに下請仕事を貰う事しか出来ない。それもペコペコと頭を下げ、モミ手をした上でピンハネされた仕事。20名以上の生活を預かるという事の精神的、肉体的心労は大きく私をイタミ付け、「金が問題ではない」事に気付く。ペンキだらけの服装をした私をいつも見下し、まるで下等人種のように見ていたネクタイ族、組織のシガラミでガンジガラメで自由のない人種と思つていたネクタイ族、「生活をしていく上で、本当はこれが一番ラクな仕事だ!」と気付いた。
成長著しい「ヤクルト」に入社してサラリーマン生活が始まる
私は成長著しい元気な「ヤクルト」と言う会社の九州支店セールス部隊に縁あって入社した。早稲田卒業後8年、フリーター平野の初めてのサラリーマン生活のスタートである、
私のサラリーマン生活は前歴が前歴だけに学卒後そのまま会社入りした「ネクタイ族」とチョット毛色が違つていた。
感性空間・オフィス平野元ヤクルト(株)専務取締役
平野博勝
■早稲田大学第1法学部卒業 熊本県出身
就職による“束縛”が嫌で‘プー太郎’として土方やトラックの運転手、喫茶店のボーイ、最後にペンキ職人になる。 今で言う‘フリーター’の草分け?
■メシを食うのにはサラリーマンが一番楽と分かり、ヤクルト九州支店に
「セールス部隊要員」として中途採用される。43年よりヤクルト本社採用になり、各部門、支店業務そして国内ヤクルト販社の経営実務を体感学習していく。
■経営危機に陥入つたフィリピンヤクルトの再建のため
経営執行副社長として経営の立て直し業務に入る。以後各国のヤクルト事業の再建や世界各地での新規事業所設立を手がける。ヤクルトの“再建屋”の異名を頂戴する。
■ヤクルト本社 59年取締役就任、61年常務取締役就任
以後ヤクルトの国際事業を統括しながら海外各地に事業所の新規設立を進めたり既存事業所の経営改革をする。
■海外現地法人の社長、会長などを歴任。
■ヤクルトの‘世界ブランド化’‘世界企業化’戦略を進める。
■平成15年(株)ヤクルト本社専務取締役国際事業本部長を退任
(株)ヤクルトライフサービス代表取締役社長、(社)日本マーケティング協会
常任理事などを歴任。大学や企業の経営者研修や経済関連団体での講演などを行う。
■平成16年 アジア人として初めて仏食品大手であるダノン本社の社外取締役に
就任。年6回程パリの取締役会に出席する。ついでにヨーロッパ各国の人達に日本の経営や文化、ヤクルト哲学などについてレクチュアしたり議論し合う。
■平成20年 全ての職を辞し、「感性空間・オフィス平野」を設立。
いわば「頼まれごと引受業」として様々な大学で講演講義をしたり、企業の経営相談に乗つたりして現在に至る。
[好きな事]
列車など乗り物に乗り。ビールやワインを呑みながら、その国の美味を肴に 外の景色をボケーッと眺めている事は最高である。だからヨーロッパでは飛行機を使はず、列車のみを使う。
また休日は寝転がり、煎餅を齧りながら、音楽を聞きながら、本を読みながら、いつの間にか寝てしまうことに‘人生の充実観’を感じる。