海外ビジネスに関連するコラム

ど素人がビジネスを泳ぐ! 第4回

《事実》は常に変化している

感性空間・オフィス平野 元ヤクルト(株)専務取締役 平野博勝

 

<企画・計画部門とは?>


『組織機能を全体として見えるようにする。』

という意図のもとにヤクルト本社の中に「企画室」を立ち上げ社長直轄スタッフ部門がスタートした。


他社の企画室がどんな事をしているのかを調べた所、どうも企業全体のヴィジョン作りや長期計画策定をやっているようだ。


平野が研修で社長に質問し、回答を得られなかった「若い社員が銭金抜きに熱中出来る組織の将来方向」を検討するための機能らしい。

 

<ヤクルトのスタート>



ヤクルトには京都大学で腸内細菌を研究し、腸内に住みつき人の健康維持に重要な役割を果たしている乳酸菌が生息している事を突き止めた代田 稔と言う学者が居た。


ヤクルトの創業者である。

 

その特殊な乳酸菌をさらに強化培養し、その菌を人が呑む事により、毎夏流行する赤痢などの腸系伝染病その他の人の腸を丈夫にしその関連の病い、患者を少しでも減らし日本の公衆衛生に寄与する。


その目的のために選び抜かれた強化乳酸菌を出来るだけ大勢の人に呑んで貰う為に起業化したのが「ヤクルト」の発端である。昭和の初めである。


その当時の医学の潮流は「治療医学」全盛であった。

その医学の潮流に反して「医学の本来の役割は病気になってからスタートするのではなく病気になる前にならない頑ケンな体作りが本来ではないのか?」と《予防医学》を主張した。


今でこそ予防医学、プロバイオティツクスの表現が世界で普通に言われる時代になったが、当時は《予防医学》はお金にならなかったのである。


しかしこの事が「ヤクルトの創業の理念、哲学になった。即ち・人の健康について高いレベルの研究をし、研究の成果を高品質の商品とし


◇出来るだけ安い値段で、出来るだけ大勢の人々に呑んで貰い


◇人々の健康に寄与し、日本の公衆衛生に貢献する という事である。

 


<専門知識とド素人?>

 


 大学法学部の生徒にも拘わらず学校にも行かない、その分野の勉強もせず、ただ自分の好奇心に任せて”彷徨い人生”を送って来た平野は経済の仕組みや企業について、またその頃流行ってきた《マーケティング》なんて事も全く知らない。


読み散らしてきた他分野、それこそ世界の文学本から歴史本、物理から生物分野のうろ覚えの知識で世の中の事を自分なりに判断せざるを得ない。


ヤクルトの企画室に身を置いてからも平野の視点は同僚達と少し違う。


視野については平野の方が広いし、視点に於いても平野の方が多様である。


が経済の事や、企業の仕組みや経営などについての知識については同僚達の方が上である。


その時に平野は経営の事や販売、売り上げの方法論等については「ド素人!」であることを自覚せねばならない事に気付いた。



ヤクルトの長期計画立案などについて議論をする時に同僚たちの意見は「具体論」になるが平野の意見は「抽象論」になりがちとなる。


すぐ理念や哲学そして考え方などの根本理論に走ってしまう。

 

平野はヤクルトの組織の現実テーマを離れ「そもそも企業組織というのは何だろう!」「社会的存在の意味は?」と抽象的なつてしまう。しかし自分なりに「必要な知識がなく自分はド素人だ!」との自覚と同時に「そうは言っても・・人より広い視野と多様な視点を持っている。


これは柔軟性をもって世の中を見れる、様々な視点から現実を見れる事ではないか、情報を他分野から解釈する事が出来るのではないか?」 

一方なまじ専門分野の知識があればその専門の知識が固定観念になり、それに捉われて事実を歪めて見てしまうのではないか? 


どうしてか?


現在の《事実》は常に変化している。


その変化の激しさから見れば大学などで勉強した知識や老人で過去の学者の理論は既に過去のモノであり、現実との間にギャップが出ているのではないか?


しかし学校時代の努力の思いがあるのでその知識は否定しがたい。

それがこだわりとなり、現在の≪事実≫を過去の知識で歪めてしまう事は無いだろうか?

 

平野は「ド素人!」という事を恥じるのではなく、むしろ誇れる事ではないかと思うようになった。

 

《事実》とは何モノか?

 

 ヤクルトの計画や企画の部門である企画室はその後、その名もズバリ社長直属の「社長室」と名を変えた。


従来の仕事に付加された機能は「社長特命事項」が増えた。

各分野の専門スタッフが集まった。


さてよく新聞などで傾いた企業などの傾いた原因で「過去の成功事例に拘り過ぎた!」と言う表現が出て来る。


これは何を意味するのか?という事を平野は考える。


計画部門に居て痛切に感じるのは、未来のコトを考える場合、何を前提にして考えるかという事が問題となる。


その前提とは今の≪事実≫をどう認識するか?という事である。


そこで問題となるのが《事実》は常に変化しているという事である。

そこで意見が食い違うのがそれぞれ持っている《専門知識》と言うやつである。

 

人が良く安易に言う「私の専門は・・」と言うときに私は質問したい。「貴方はその専門と言う知識を何処で得ましたか?何時頃得ましたか?」と・・・。

 

 

 

 

 

 

  

 

平野博勝

感性空間・オフィス平野元ヤクルト(株)専務取締役
平野博勝

■早稲田大学第1法学部卒業 熊本県出身
就職による“束縛”が嫌で‘プー太郎’として土方やトラックの運転手、喫茶店のボーイ、最後にペンキ職人になる。 今で言う‘フリーター’の草分け?
■メシを食うのにはサラリーマンが一番楽と分かり、ヤクルト九州支店に
「セールス部隊要員」として中途採用される。43年よりヤクルト本社採用になり、各部門、支店業務そして国内ヤクルト販社の経営実務を体感学習していく。
■経営危機に陥入つたフィリピンヤクルトの再建のため
経営執行副社長として経営の立て直し業務に入る。以後各国のヤクルト事業の再建や世界各地での新規事業所設立を手がける。ヤクルトの“再建屋”の異名を頂戴する。
■ヤクルト本社 59年取締役就任、61年常務取締役就任
以後ヤクルトの国際事業を統括しながら海外各地に事業所の新規設立を進めたり既存事業所の経営改革をする。
■海外現地法人の社長、会長などを歴任。
■ヤクルトの‘世界ブランド化’‘世界企業化’戦略を進める。
■平成15年(株)ヤクルト本社専務取締役国際事業本部長を退任
(株)ヤクルトライフサービス代表取締役社長、(社)日本マーケティング協会
常任理事などを歴任。大学や企業の経営者研修や経済関連団体での講演などを行う。
■平成16年 アジア人として初めて仏食品大手であるダノン本社の社外取締役に
就任。年6回程パリの取締役会に出席する。ついでにヨーロッパ各国の人達に日本の経営や文化、ヤクルト哲学などについてレクチュアしたり議論し合う。
■平成20年 全ての職を辞し、「感性空間・オフィス平野」を設立。
いわば「頼まれごと引受業」として様々な大学で講演講義をしたり、企業の経営相談に乗つたりして現在に至る。

[好きな事] 
列車など乗り物に乗り。ビールやワインを呑みながら、その国の美味を肴に 外の景色をボケーッと眺めている事は最高である。だからヨーロッパでは飛行機を使はず、列車のみを使う。
また休日は寝転がり、煎餅を齧りながら、音楽を聞きながら、本を読みながら、いつの間にか寝てしまうことに‘人生の充実観’を感じる。