ど素人がビジネスを泳ぐ! 第6回 ヤクルトの創業者はユニークな学者だった

平野博勝
 

 <ヤクルトの創業者はユニークな学者だった>


 実はヤクルトの創業者代田稔は日本の細菌学者としては1945年以前、戦前から京都大学の研究者として名を知られていた。

と言うのもその頃の細菌学というのは普通「病原性細菌の研究」、毎年定期的に人々を襲う赤痢や疫痢、チフスのような集団発生の原因となる細菌の研究が主流の中で代田の研究はユニークであった。

即ち 彼の研究は「腸内菌叢」、人の腸内に住み着き人の健康状態と関わり合っている菌叢の研究で 言葉を変えると病原性ではなく「優良性菌」人の腸内で健康に良い役割を果たしている細菌の研究だったのだ。時流とは異なるユニークな研究分野だった。

彼は当時の主流であった「治療医学」ではなく「予防医学」の考えを主張した。

「病気になってから治療するのではなく病気にならない体、なりにくい体を作る事の方が大事だ!」の主張である。

当時の日本は帝国主義の国で植民地を有しており、今は独立国である旧日本の植民地に帝国大学が有った。当然今の京都大学も京都帝国大学であった。

帝国大学間の横の情報交流でシロタの名は今では外国になった旧帝国の学者間でも知られていた。腸内細菌叢が人の健康に重要な働きをしている。

特にある種の乳酸菌が伝染病菌に強い働きかけをする。日本でシロタが創業したヤクルトは健康上大事な保健飲料だ!の情報はヤクルトが日本全国に広まる時、日本の旧植民地だった国でも実は知られていたのだ。

 

 <意外と速いヤクルトの海外進出>


 日本で九州から北上し本州の東北・北海道に至る桜前線のようにヤクルトは全国展開して行った。

保健飲料としてヤクルトの成長を見ていた海外のシロタの名を知っている人達が自分の国で「是非ヤクルトの仕事をやらせて欲しい!」の声

が出て来た。

それが台湾ヤクルトをスタートさせたキッカケである。1964年(昭和39年)の事である。

当時ヤクルト組織は中枢としての本社は確固としていなかったし機能も充実していなかつた。前に述べたように、ヤクルトはシロタの健康理念に惚れ込んだ各地方の個別の人達が各個の資金でスタートした事業形態で、本社が先にあり本社資本で各地の事業所を創立した訳ではない。

後に各個がバラバラでは不都合、不便が発生し調整機能が必要だという事になり、各事業所の人達が資金も出し合い「本社」を設立した経緯がある。

各地区の事業所も原料液を培養する事業所、ビンに充填処理する事業所、販売をする事業所それぞれが独立法人という複雑な事業形態であった。

台湾ヤクルトの設立も当時の本社は力と機能が未だ整ってなく海外事業所設立の機能も無かった。

だから最初の台湾からの要請による「台湾ヤクルト」の設立も数あるヤクルト事業所の中での有力者、実力者であるⅯ氏が設立した。

台湾は日本の旧植民地であり、台湾の人々は日本人の言葉は勿論、考え方ややり方をよく理解している。日本側とのコミュニケーションも

スムーズである為に大成功であつた。ヤクルトの海外進出大成功に気を良くしたⅯ氏は次に“日系人社会”が強固なブラジルに進出した。

1968年(昭和43年)の事である。もともと日本人である日系ブラジル社会はシロタの予防医学、保健飲料を歓迎的に受け入れて呉れてこれも海外進出として成功した。台湾やブラジルの進出が好調であつたために、他の有力ヤクルト事業者が香港(1969年)タイ(1971年6月)韓国(1971年8月)と海外進出を果たした。

その頃には後発で設立された本社にも徐々に人材が集まり、その中で海外に目を向ける本社社員も出て来た。韓国ヤクルトは本社主導の初めての海外事業所と言っても良い。その後、海外進出と言うような「ヤクルト事業の大きな戦略」は一事業者が勝手に考えるのではなく、ヤクルト

全体即ち本社の論議と決定のもと進めよう!と決まり本社内に海外進出の機能を設けそこに人材を集める事になった。しかしその機能は“総務部の海外課”であった。「ひょっとすると、海外の仕事も面白いかも?」と言う未経験の社員が5名ほどおり、台湾とブラジルヤクルトの連絡窓口のような仕事をやっていた。

 

 <海外事業所の明暗~異文化との接触>


 植民地時代すっかり定着していた日本人の考え方とやり方 即ち日本人の文化を理解できる台湾と、もともと日本人である日系ブラジル人社会を中核としたブラジルヤクルトは文化の共有と言う接点を通じてヤクルトの理念やシロタの哲学を共有する事が出来たと言うのが成功の根底にあった。

ところが・・香港、フィリピンやシンガポールとなると太平洋戦争時代敵国ないし反日国家となる。また異文化国家となる。そうすると日本人の考え方ややり方に批判的、ないし反対的考え方ややり方の国民性がある。

平野が海外事業を担当させられるような理由がそんな国で発生して来た。1960年の後半から70年代にかけては今のようにグローバル世界にはなっていなかった!

 

 
 

平野博勝

感性空間・オフィス平野元ヤクルト(株)専務取締役
平野博勝

■早稲田大学第1法学部卒業 熊本県出身
就職による“束縛”が嫌で‘プー太郎’として土方やトラックの運転手、喫茶店のボーイ、最後にペンキ職人になる。 今で言う‘フリーター’の草分け?
■メシを食うのにはサラリーマンが一番楽と分かり、ヤクルト九州支店に
「セールス部隊要員」として中途採用される。43年よりヤクルト本社採用になり、各部門、支店業務そして国内ヤクルト販社の経営実務を体感学習していく。
■経営危機に陥入つたフィリピンヤクルトの再建のため
経営執行副社長として経営の立て直し業務に入る。以後各国のヤクルト事業の再建や世界各地での新規事業所設立を手がける。ヤクルトの“再建屋”の異名を頂戴する。
■ヤクルト本社 59年取締役就任、61年常務取締役就任
以後ヤクルトの国際事業を統括しながら海外各地に事業所の新規設立を進めたり既存事業所の経営改革をする。
■海外現地法人の社長、会長などを歴任。
■ヤクルトの‘世界ブランド化’‘世界企業化’戦略を進める。
■平成15年(株)ヤクルト本社専務取締役国際事業本部長を退任
(株)ヤクルトライフサービス代表取締役社長、(社)日本マーケティング協会
常任理事などを歴任。大学や企業の経営者研修や経済関連団体での講演などを行う。
■平成16年 アジア人として初めて仏食品大手であるダノン本社の社外取締役に
就任。年6回程パリの取締役会に出席する。ついでにヨーロッパ各国の人達に日本の経営や文化、ヤクルト哲学などについてレクチュアしたり議論し合う。
■平成20年 全ての職を辞し、「感性空間・オフィス平野」を設立。
いわば「頼まれごと引受業」として様々な大学で講演講義をしたり、企業の経営相談に乗つたりして現在に至る。

[好きな事] 
列車など乗り物に乗り。ビールやワインを呑みながら、その国の美味を肴に 外の景色をボケーッと眺めている事は最高である。だからヨーロッパでは飛行機を使はず、列車のみを使う。
また休日は寝転がり、煎餅を齧りながら、音楽を聞きながら、本を読みながら、いつの間にか寝てしまうことに‘人生の充実観’を感じる。

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